半坪ビオトープの日記


正庁の奥には、藩主の休息所であり諸公子の勉学所だった至善堂がある。ここは奥の御座の間をはじめ4室からなっている。至善堂の名は、徳川斉昭が中国の経書「大学」からとって命名したものである。
第15代将軍慶喜も、父・徳川斉昭の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館で英才教育を受け、慶応3年(1867)大政奉還の後、この至善堂で謹慎した。

至善堂の回りには、早春の花ロウバイが随所に植えられていて、まだ咲き残っていた。

敷地内に植えられている梅の木は60種800本といわれる。多くは元文館があった正庁の右手の梅林内にあるが、ここ至善堂の裏手やその裏の孔子廟の近くにも植えられていてようやく、紅白混じって咲き始めている。

白壁の向こうの敷地には、精神のよりどころとしての鹿島神社孔子廟を祀り、学校の聖域とした。ほかにも建学の精神を示す「弘道館記」の碑を収め、弘道館教育の精神的な支えとなる八卦堂や種梅記碑、学生警鐘、要石歌碑などがある。塀越しの孔子廟の中には孔子神社が安置されている。廟の構造は、大成殿を模した総欅瓦葺、入母屋造、平屋建ての建物だったが、昭和20年の戦災で焼失し、その後昭和45年に忠実に復元して再建された。

至善堂を廻りきると、趣きのあるつるべ井戸があった。脇には枝垂れウメが咲いていて、彼方うしろには「文明夫人(徳川斉昭夫人)の歌碑」がある。弘道館が創建されたとき玄関の前に烈公お手植えの松とともに植えられた、桜のひこばえがきれいに花咲かせたのをめでて詠われたという。
「天(あま)さかるひなにはあれとさくら花雲のうへまでさき匂はなん」