半坪ビオトープの日記


偕楽園は名園として名高く、日本三公園の一つに数えられている。その名称は、中国の古典である「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとったもので、藩主のためだけでなく家臣や庶民の遊園にも供された。簡素な芝前門(しばさきもん)をくぐって左側が好文亭料金所となる。

入口脇にようやく咲き始めた「烈公梅」の梅の木があった。水戸にしかない品種とされている。

好文亭は木造二層三階建ての好文亭本体と平屋造りの奥御殿からなり、その位置から建築意匠まで斉昭が自ら定めたといわれる。
斉昭は、ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や養老の会などを催した。奥御殿は、城中に出火があった時の避難場所として備えられ、藩主夫人やお付きの御殿女中が使用した。

「好文」とは梅の異名、好文木に由来し、中国の故事に基づいて名付けられた。戦災で焼失したが、昭和30年から3年かけて復元された。

内部の東広縁、紅葉の間、萩の間などいくつもある部屋が昔の面影を今に伝えている。この部屋は、菊の間である。

こちらは桃の間である。菊の間と桃の間は、総板敷きで、食事の準備の廚(くりや)として使用された。