半坪ビオトープの日記

御薬園、松平氏庭園


前述したように御薬園の起こりは、室町時代に霊泉の湧き出したこの地に永享4年(1432)蘆名盛久が別荘を建てたのが始まりといわれる。その後寛文10年(1670)会津藩2代藩主保科正経が領民を疫病から救うために園内に薬草園を作り、3代藩主松平正容が貞享年間に朝鮮人参(オタネニンジン会津人参)を試植し、その栽培を民間に広く奨励したことから、御薬園と呼ばれるようになった。入り口に近い売店を兼ねた展示場で、現物や由来が紹介されている。

薬用になる朝鮮人参は、元来「人参」と呼ばれ、中国、朝鮮半島及び日本では古くから知られた薬草である。オタネニンジン(御種人参)の名は、8代将軍徳川吉宗対馬藩に命じて朝鮮半島で種と苗を入手させ、試植と栽培・結実の後で各地の大名に「御種」を分け与えて栽培を奨励したことに由来する。現在、セリ科のニンジンと区別されて、植物名としてはウコギ科オタネニンジン(Panax ginseng)とされ、薬用・食用としては高麗人参と呼ばれるようになっている。
天明の飢饉(1782~83)で会津の農業も大きな打撃を受け、藩は養蚕、漆・ろう・紅花などの栽培を奨励し、農村振興に乗り出した。特に朝鮮人参は人参奉行所を設け、生産販売を専売制にし、藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津和人参は天保3年(1832)幕府の許可によって日本で初めて輸出人参として清国(中国)に向け長崎を出港した。

売店の東側に御茶屋御殿が建っている。御茶屋御殿の前、池に面して五葉松が美しく枝を広げている、推定樹齢500年といわれる。
現在の池泉回遊式庭園は、3代藩主松平正容が元禄9年(1696)小堀遠州の流れをくむ園匠・目黒浄定と普請奉行・辰野源左衛門に造らせたもので、規模を拡大して借景を取り入れ大補修している。中央には屈曲した池があり、その中に島を配し、楽寿亭を建てている。
周囲を石敷路で囲み、北には赤松、東から南にかけて樅・柊・松の古木が聳えている。時計回りに歩き始めると、北の奥に古ぼけた三層石塔がある。鎌倉時代初期のものと伝わっているそうだ。

赤松の木の下に、形の良いキノコが出ていた。テングタケAmanita pantherina)である。見た目は美しいが有毒で、食べると下痢や嘔吐、幻覚などの症状を引き起こし、最悪の場合、意識不明に至ることもある。毒の成分はイボテン酸で、うまみ成分でもある。殺蝿作用もあり、ハエトリタケの別名がついている。

庭園の東には女滝・男滝があり、その傍に鶴ヶ清水と朝日神社がある。今から約600年前の至徳年間(1384~87)朝日保方という白髪の老人が、病気で苦しむ農民を鶴の舞い降りた泉の水で救ったとされている。農民はこれを喜び社を建てて朝日神社とし、この霊泉を鶴ヶ清水と呼んだという。

鶴ヶ清水の先で西に折れると、橋の向こうに数奇屋風茅葺平屋の楽寿亭を見る。楽寿亭の命名は、3代藩主松平正容による。

8畳一間に框床がついている。主に藩主や藩重役等の納涼や観光の場であり、茶席や密議等の場としても使われていた。

ここにも戊辰戦争当時の刀傷跡があるが、御茶屋御殿と同じくここで戦闘は行われず、新政府軍が気晴らしに斬りつけたものである。

庭園の南からは、池の周りに点在する松の木の間に楽寿亭と御茶屋御殿が揃って見渡せる。元禄9年(1696)に建てられ、歴代藩主らも愛用した御茶屋御殿では、現在、お抹茶席やお点前席も楽しむことができる。心字池の中央の楽寿亭とともに戊辰戦争時に新政府軍の傷病者の診療所とされたため、戦火を逃れた。建物の柱には今でも大きな刀痕が残されているが、ここで戦闘は行われず、新政府軍が気晴らしに斬りつけたものである。

最後に売店の近くでドクダミ(Houttuynia cordata)の花を見つけた。本州から沖縄までの半日陰地に自生する多年草で、全草に強い臭気がある。古くは之布岐(シブキ)と呼ばれていた。ドクダミの名は、「毒矯み」(毒を抑える)から由来する。茎頂に花弁に見える4枚の白色の総苞片のある棒状の花序に淡黄色の小花を密生させる。珍しく普通4枚の総苞片が八重咲きとなっている。
ベトナム料理ではフォーや魚料理によく使われるが、日本のものより臭気はきつくない。日本では山菜として天婦羅などに利用されることもあるが、葉を乾燥させたドクダミ茶の利用が多い。生薬として十薬があり、利尿作用、動脈硬化の予防作用が知られている。
これで6月上旬の安達太良山ハイキングの旅は終わった。