半坪ビオトープの日記

常陸国分寺・国分尼寺跡


常陸国分寺跡では、昭和44年以降の発掘調査により、南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並び、中門から金堂にかけては回廊が巡り、七重の塔が回廊の東側に位置していたことが分かった。
この金堂跡も、現在残されている基壇の約4倍の規模をもつことが明らかになっている。

薬師如来堂の右手(東)には、弘法大師堂が建っている。

薬師如来堂の左手(西)には、本堂が建っている。薬師如来堂、弘法大師堂、本堂の三つの建物は、明治以降の再建である。

本堂の手前(南)に、旧千手院山門がある。千手院は、弘仁9年(818)行基大僧正の弟子行円上人によって開基され、建長4年(1253)まで続いたと伝えられている。天正元年(1573)朝賀上人により中興され、府中の大寺であったが、大正8年には国分寺と合併して廃寺となり、山門だけが残った。この山門は、寛保3年(1743)国分寺の僧侶、深恵により建立された。
山門には精巧な彫刻が施されている。悲鳴をあげる小猿を鷺が捕まえようとしているのだが、煩悩に身を焦がして奈落の底に転げ落ちようとする人間を、慈悲深い観音様が鷺に化身して救済しようとしているとのことである。

常陸国分寺跡の北西800mに常陸国分尼寺跡がある。国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は水田10町によりまかなわれた。一般に国分尼寺国分寺より早く衰退したため遺跡の場所すら不明なものが多い。

常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石群が基壇上にあって保存され、全国的にみても貴重な遺跡とされ、国分尼寺として全国で唯一特別史跡の指定を受けている。これは、中門跡から講堂跡を見たところである。発掘調査により、寺域は約1.5町(約164m)四方であったとされる。