半坪ビオトープの日記

にし茶屋街


長町武家屋敷跡から犀川の左岸にあるにし茶屋街に向かい、犀川に架かる新橋を渡る。上流に見えるのは、犀川大橋である。文禄3年(1594)加賀藩前田利家の頃に木像の大橋が架かり、藩政期には犀川に架かる唯一の橋として「いさごの橋」「中河原の橋」「一ノ橋」などと呼ばれていた。現在のワーレントラス形式の橋は、大正13年(1924)日本橋梁技術の先駆者である関場茂樹の設計により完成された。犀川大橋の彼方先には、まだ雪の残る山が見える。犀川は、白山連峰の奈良岳を源流にもつので、富山県との県境の山に違いない。犀川大橋の近くに、室生犀星記念館がある。徳田秋声泉鏡花と並ぶ、金沢3文豪の一人・室生犀星は、故郷の犀川をこよなく愛したが、この犀川の西で生まれ育ったので筆名を犀星としたという。

金沢には、ひがし茶屋街、主計町茶屋街、にし茶屋街と3つの茶屋街があるが、にし茶屋街には一番多くの芸妓さんがいるという。文政3年(1820)12代藩主・前田斉広の頃、ひがし茶屋街とともに正式に茶屋町の町割りができ、藩公認の茶屋街にふさわしい格式と伝統を受け継ぎ、明治以降も歓楽街としてにぎわった。

料亭が軒を並べて趣きある一角を作り上げていて、今でも「一見さんお断り」が基本だが、夕刻近くに通りを歩けば、出格子が美しい茶屋様式の2階建ての家並みからは三味線の音色が流れ、芸の街・金沢の夜を粋に演出しているという。

にし茶屋街のお茶屋「吉米楼」跡地に、当時の建物を再現した西茶屋資料館がある。「吉米楼」は、大正時代の人気作家だった島田清次郎の小説「地上」の舞台になったところで、1階には島田清次郎の資料も展示されている。

2階に上がると金屏風に三味線と、はやくも別世界が始まる。

紅殻壁の艶かしいお座敷には、輪島塗の総漆の平机など漆塗りの装飾品、長火鉢などが展示され、投扇興に使う扇子や太鼓なども置かれ、にし茶屋街の華やかなお茶屋遊びの様子が再現されている。お座敷遊びができる身分ではないが、お茶屋の風情を少しは垣間見ることができる。

こうして、5月上旬に金沢から能登半島、越前まで足をのばした北陸の史跡巡りを終え、早めに帰途についた。
富山市を通過する辺りからは、まだ雪の残る立山連峰北アルプス連峰の山並みが眺められた。
今回は、総持寺祖院と永平寺という曹洞宗の本山を観て回ることから、いくつか本を読んだので曹洞宗について簡単にまとめておきたい。
禅宗の二大宗派、臨済宗曹洞宗の相違は、臨済宗の大慧宗杲(だいえそうこう、1089~1163)の看話禅(かんなぜん)と、曹洞宗の宏智正覚(わんししょうがく、1091~1157)の黙照禅との相違で説明される。臨済宗では禅師の優れた行いや言葉を題材にした公案を考えさせることに重点を置くが、曹洞宗では「只管打坐(しかんたざ)」といってひたすら坐禅することに重点を置く。見た目での違いは、臨済宗では壁に背を向けて坐るのに対し、曹洞宗では壁に向かって坐ることである。曹洞宗大本山は、福井県永平寺横浜市にある総持寺の二つある。永平寺は、道元禅師が45歳の時(1244)、波多野義重の願いにより越前に大佛寺を建立し、2年後に永平寺と改称したことに始まる。多くの修行僧が今でも厳しい作法に従って禅の修行を営んでいる。総持寺は、4世瑩山禅師が58歳の時(1321)能登の諸嶽寺を定賢律師より譲られ、これを禅院に改めて諸嶽山総持寺と名付けたことに始まる。明治31年(1898)に七堂伽藍を焼失し、その後、総持寺能登から横浜へ移ったが、旧地が総持寺祖院として地域の信仰を集めている。
素人には永平寺総持寺の関係がよくわからないのだが、大まかに次のようにまとめておく。修行に熱心な永平寺と、民間信仰も取り入れ布教に熱心な総持寺に別れ、主導権争いをしたこともあるが、宗教法人曹洞宗の代表者は永平寺の禅師と総持寺の禅師が交互に務めるなど、両本山は分派せずにうまく分業していると思われる。ちなみに修行僧が多いのは永平寺で、本寺と末寺の関係だとほとんどが総持寺となっている。