半坪ビオトープの日記

永平寺、法堂


永平寺は、山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋である。本尊は釈迦如来弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。宗祖道元は、正治2年(1200)に生まれ14歳のとき比叡山延暦寺で仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は生まれながらにして本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。建保5年(1217)比叡山を下りて建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事したが、ここでも答えは得られず、師弟ともども貞応2年(1223)に渡宋する。道元は天童山景徳寺の如浄に入門し修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調するもので、道元はようやく如浄の法を嗣ぐことを許され、4年の滞在を終えて帰国した。日本に戻った道元は、はじめ建仁寺に住し、後に深草興聖寺を建立して説法に励んだが、比叡山から激しい迫害に遭う。信徒の一人だった越前国土豪・波多野義重の請いにより寛元元年(1243)越前国吉峰寺に赴く。翌年、傘松峰大佛寺を建立する。これが永平寺の開創で、寛元4年に吉祥山永平寺と改めた。寺号の由来は、中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝の時の元号「永平」からで、意味は「永久の和平」である。
僧堂から法堂に上がる回廊の途中で、左手に承陽門が見える。奥に見える承陽殿の門で、一天門とか承陽中雀門とも呼ばれる。

開山真廟である承陽殿は、間口6間、奥行7間の拝殿と、間口3間、奥行4間の土蔵造りの本殿とに分けられる。明治14年(1881)の再建で、本殿(真廟)には、開山道元禅師と2代尊の霊骨が奉祀され、さらに5代尊(2世孤雲懐弉禅師、3世徹通義介禅師、4世義演禅師、5世中興義雲禅師)の木像も安置されている。拝殿右側には6世曇希以下77世までの位牌などを祀り、左側には高祖大師の生家久我家の位牌、永平寺開基波多野義重の木像、昔の仏殿の建立に功績があった井伊家の位牌も祀られている。拝殿入口には久我道久揮毫の「承陽殿」という額があり、内部眉間には明治天皇より下賜された「承陽」という勅額が掲げられている。

承陽殿から承陽門を見下ろすと、1間1戸の翼廊付向唐門で、裏から見ても繊細な彫刻が施されているのがわかる。

承陽殿から戻って、七堂伽藍の一番奥に位置する法堂(はっとう)に入る。天保14年(1843)永平寺57世載庵禹隣禅師代に再建されている。間口18間、奥行14間、380畳敷で客殿を兼ね、法要儀式も行われるので客殿型法堂とも呼ばれる。須弥壇中央には藤原時代作という聖観世音菩薩を祀り、中央階段の左右には阿吽の白獅子が置かれている。

須弥壇の脇には、三界萬霊供養壇が設けられていた。

法堂から下を見渡すと、一文字廊の向こうに仏殿が見え、その左に大庫院が認められた。

法堂から大庫院に向かって下る回廊の左奥にも、妙高台、光明殿、監院寮などいくつも建物があるのだが、なかなか見分けがつき難い。

法堂の前面には長い段があって、そこに腰掛けて瞑想に耽っている人もいる。

大庫院に向かって下る回廊から法堂を見返るとその大きさに圧倒される。

石垣の下には池があり、蛙が鳴いているのが聞こえた。