半坪ビオトープの日記

大寧寺、本堂


萩市観光の後は長門市の湯本温泉に泊まり、翌朝早く、温泉街から大寧寺川の上流にある大寧寺(たいねいじ)を訪ねた。湯本温泉は、大寧寺3世定庵和尚の時、長門一宮住吉明神のお告げで寺の東を掘ったところ温泉が湧き出し、衆僧が沐浴に使ったことに始まるという。
大寧寺の境内は広いが、南東に流れる大寧寺川に朱色の虎渓橋が架かっている。その手前には、「姿見の池」と「兜掛け岩」がある。大内氏は戦国時代、山口に優れた大内文化を育てた名族である。しかし天文20年(1551)31代当主大内義隆は、重臣陶隆房(晴賢)の反乱によって山口を追われ、この大寧寺で自害した。義隆は境内に入る前、乱れた髪を整えようと参道脇の岩に兜を掛け、そばの池に顔を映そうとした。しかし水面に自分の姿が映らず、運命を悟った義隆は寺の本堂に入り潔く自刃したという。

虎渓橋のすぐ上流に磐石橋が架かっている。本堂にまっすぐ通じる第一の橋・磐石橋は、長さ14.2m、幅2.4mで、自然石を巧みに組み合わせて造られている。かつては岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と並ぶ「防長三奇橋」の一つに数えられていた。寛文8年(1668)燈外和尚の時代に造られ、宝暦14年(1764)呑海和尚の時に再建されている。本堂への第二橋=白蓮橋、第三橋=放生池は、どちらも磐石橋より2年前の寛文6年に架けられている。
なお、この辺りはゲンジボタルの発生地として国の天然記念物に指定されている。

磐石橋から本堂に向かって左には、釈迦三尊と十六羅漢の石仏像が並んでいる。大寧寺には、江戸初期のものとみられる二組の十六羅漢像がある。その一組がこれらの石像で釈尊を中心に配置されている。もう一組は木像で、今は本堂内陣に納められている。

磐石橋の正面に本堂への参道がまっすぐ見えるが、その脇に「大寧護国禅寺」の寺号標が立っている。本堂に向かうと白蓮池を渡り、山門跡を通る。

天正年間(1570年代)毛利家永代家老益田藤兼が当寺15世関翁殊門禅師に帰依し山門を寄進、のち寛永17年(1640)野火によって焼失した山門は、延宝5年(1677)益田元尭により再建された。桁行5間、梁間2間5尺、桧皮葺入母屋重層の荘厳な山門だったが、明治以後藩の保護もなく維持困難を極めて明治末期に倒壊したままで、礎石だけが跡をとどめている。

西海きっての禅窟、曹洞宗の瑞雲山大寧寺は、長門守護代であった鷲頭弘忠が、能登総持寺から故郷薩摩へ帰る途中の僧石屋真梁禅師に帰依し、応永17年(1410)に師のために建立したものである。10年後、真梁の弟子智翁が師の聖跡をたずねてきたことを喜んだ鷲頭弘忠が現在地に伽藍を移したといい、このとき永平寺と本末関係になったという。天文20年(1551)大内義隆が最後を遂げた戦乱で大寧寺の七堂伽藍は焼失した。その後、毛利家によって旧に復したが、寛永17年(1640)再び野火によって焼失した。そのとき焼け残った衆寮を本堂として文政12年(1829)移築したのが現在の本堂である。

桁行5間、梁間7間、正面に1間の葺下しの向拝を付す。外陣は両脇の18畳と大間の24畳からなり、その奥に両脇それぞれに12畳、中央に16畳の内陣を設ける。内陣中央奥に仏壇を置き、その背面に来迎壁を付す。天井は向拝、内陣及び外陣中央部は格天井、その他は棹縁天井とし、内陣板敷部分の天井板は彩色絵を施している。

本堂の左に梵鐘が吊り下げられている。総高97.3cmで、銘文によると筑前州垣崎庄葦屋津にあった長福寺の鐘として、応永3年(1396)に芦屋の鋳物師によって鋳造されたという。

本堂の左に続いて智日堂がある。開山堂とも呼ばれる。

開山堂の左には新しい位牌堂があり、その後ろに寺宝を展示する歴史資料館(虎渓殿)が建てられている。