半坪ビオトープの日記

武家屋敷


尾山神社から南に歩き、香林坊を西に入ると、長町武家屋敷跡がある。加賀藩時代の上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ね、土塀と石畳の路地が続いていて、藩政時代の情緒ある雰囲気を味わうことができる。この長町三の橋周辺がその中心地といえる。

前田家の重臣である長氏の屋敷があったことが長町の由来である。長町三の橋の袂にある旧野村家は、現在長町で唯一一般公開されている武家屋敷跡である。

野村家は、天正11年(1583)に前田利家金沢城に入城した際に直臣として従った野村伝兵衛信貞の家で、禄高1200石、10代にわたって御馬廻組組頭、各奉行職を歴任し、明治の廃藩まで続いた家柄である。玄関を入ると正面に甲冑一式が展示されている。前田利家軍と佐々成政軍が戦った、能登末森城の戦い(天正12年)に野村伝兵衛が着用したものである。

最初に奥の間があり、床の間には前田利嗣の筆になる掛軸が掲げられている。

明治以降、武家制度の解体で多くの屋敷が菜園などとなり、土地は分割されて住宅地へと変貌していった。野村家も館が取り払われ住人もいくどか変わっていったが、加賀の支藩大聖寺藩下橋立村の傑商久保彦兵衛が、藩主を招いた天保14 年(1843)建築の豪邸の一部の上段、謁見の間を、昭和初期に移築して現在に至っている。奥の間から控えの間を通り抜けると、謁見の間があり、仏間が続いている。手前の謁見の間は、久保彦兵衛が、大聖寺藩主を自宅に招いた際の部屋である。謁見の間の白い牡丹の襖絵は、大聖寺藩士の山口梅園作である。梅園は、心流剣術の名手といわれ、画家・浦上春琴に絵画を学んだという。

謁見の間の右横に続く上段の間は、総欅造りの格天井、紫檀・黒檀材を使った細工造り、畳下が桐板張りなど、金に糸目をつけない造りとなっている。上段の間の襖絵は、狩野派の最高峰である法眼位の佐々木泉景筆による雄渾なる山水画である。

とりわけ、上段の間付書院にある、濡れ縁にせまる曲水を映すギヤマン入りの障子戸は、目を見張るばかりである。付書院には、聲桶(こうけい)が置かれている。聲桶とは、鶯の鳥籠を桐箱に入れて鳴き声を響鳴させ風情を楽しむものである。

上段の間付書院の濡れ縁から眺める庭園は、樹齢400年のヤマモモや椎の古木、各種の春日灯籠、雪見灯籠や桜御影石の架け橋などを絶妙に配し、濡れ縁のすぐ近くまで迫る曲水、落水を配した佇まいが、屋敷と庭園を見事に調和させた造りを見せている。まさに小堀遠州好みの「真の庭」の代表的庭園として高く評価されている。

最奥にある小さな茶室・不莫庵に向かう中庭も、こじんまりと趣向が凝らされていて人気がある。

武家屋敷跡の残る長町を貫くように南北に流れる小川は、大野庄用水という。天正、慶長年間(1573~1615)に金沢城が築城された際、宮越(現在の金沢港)から犀川を遡って木材を運び、この水路に引き入れたという。そこから御荷川と呼ばれ、多目的用水として大野庄用水と呼ばれるようになったそうだ。

大野庄用水の水を庭園の曲水に引き入れたり、水車小屋の動力にすることもあったという。水路に沿って伸びる土塀や見越しの木々の風情は、興趣に富んでいる。ここは長町二の橋である。

当時の武家屋敷は周囲を土塀で囲むのが慣わしだったそうで、土塀と土塀の間に挟まれるように石畳の細い路地がいくつも走っている。長町武家屋敷跡には、ほかにも長屋門が修復・公開されている旧高田家跡や、上級武士の暮らしぶりを解説する前田土佐守家資料館などもある。