半坪ビオトープの日記

喜多方「蔵の里」


喜多方市はかつて「北方」と呼ばれ、江戸時代には物資の集散地として、また若松城下と米沢を結ぶ街道の町として栄えていたが、今では「蔵の町喜多方」と呼ばれている。
しかし土蔵造りの蔵が家並みをなしているのは、喜多方駅の北東約9kmの杉山集落であり、レンガ造りの蔵は杉山の手前の三津谷集落が有名である。
「蔵の里」は、市役所の西1kmに位置し、店蔵、蔵座敷、穀物蔵、味噌醸造蔵など7棟と、旧郷頭屋敷や旧肝煎屋敷の曲がり家を移築し、蔵造りの文化を後世に伝えることを目的としている。
今でも残る4,100棟以上の蔵が建てられたのは、①物資の蓄えに必要だった、②醸造業や漆器業に最適だった、③明治13 年の大火でその耐火性が見直された、④蔵を建てることは男の一生の夢だった、⑤蔵造りの名工が数多くいた、などが主な理由とされている。

約4,500㎡という広い敷地内に入ると、すぐ左に旧井上家穀物蔵が建っている。茅葺を瓦葺に再生し、片開きの土戸の鍛冶金物は慶応4年(1868)建前の当時のものである。会津型紙の資料が展示されている。

敷地の一番左手には、間口3間半、奥行8間の旧唐橋家味噌醸造蔵が建っている。内部は木造トラス組の架構をあらわし、2階は吹き抜けとなっている。昭和40年代に、喜多方の蔵を撮り続けていた町の写真家、金田実氏の写真が展示されている。

その右手には、旧猪俣家穀物蔵がある。かつての宿場町、熊倉にあった蔵で、屋根、窓の配置など均整が取れ、観音開きの扉の意匠も美しい当地方の典型的な穀物蔵である。喜多方の生んだ明治の社会福祉事業の母、瓜生岩子の資料が展示されている。日本社会福祉の礎を築き、東京の浅草寺観音の境内にも銅像がある。

さらに右手には、店蔵から座敷蔵、勝手蔵と続く。その配置は喜多方地方の典型的な商家の構成で、蔵を母屋内に取り込んでいる。勝手蔵には、会津郷土史家、二瓶清の考古学的資料がたくさん展示されている。

大きな中庭の向こうには、郷頭屋敷旧外島家住宅が建っている。江戸初期から幕末まで郷頭を務めた外島家の住宅で、主棟および曲がり棟の創建は明和8年(1771)との記録が残っている。

道路を隔てた右側にも蔵がある。これは旧東海林家酒造蔵である。大正12年に建てられたこの蔵では、かつての銘酒「白山」が醸造されていたが、昭和7年「夢心酒造」が譲り受け倉庫として使っていた。

その右手にあるこの建物は、肝煎屋敷旧手代木家住宅である。江戸後期から明治初期まで下三宮村の肝煎を務めた手代木家の住宅である。異色ある間取りや鍵型に曲げられた造りなど江戸後期の形態を留めている。

「蔵の里」の真向かいには、喜多方市美術館が建っている。蔵の町の施設らしく、煉瓦蔵をイメージした建物で、「蔵の里」とともにカルチャーゾーンを形成している。