半坪ビオトープの日記

角館、青柳家


角館の城下町が造られた当時の元和6年(1620)には、武家屋敷80戸、商家350戸と数えられ、秋田藩支藩としては最も大きな城下町を形成していた。格式高い薬医門で知られる青柳家は、角館を代表する武家屋敷である。藩への功績が認められ特別に許された青柳家の薬医門は、上級武士にしか許されないはずの重厚で格調高い造りで、今では角館の象徴となっている。万延元年(1860)大工棟梁柴田岩太郎の銘が矢板に記され、現主屋の建造もこの頃と推測されている。

柳家は、藩政期には南部境目山役など勤めたが、明治になって地主として発展し、百町歩におよぶ田畑を有した。そのためか、屋敷は江戸時代の十三間三尺から現在のような宏大な屋敷地を持つようになった。敷地は石黒家の南隣にあり、3000坪の広さを誇る。広い庭には600種類もの花や木が四季折々の表情を見せる。

主屋は、安永元年(1772)に建てられた茅葺寄棟造の鍵屋造りで、玄関・取次の間・座敷・仏間・納戸があり、角館の武家屋敷の中でもとりわけ豪華である。石黒家と同じく、起(むく)り破風と水紋が彫られた懸魚の付いた正玄関と脇玄関があり、客の格式・身分により使い分けていた。

門を入ってすぐ北には屋形で覆われた井戸がある。このような井戸屋形が邸内には何ヶ所かあり、今でも水が出るという。

拝観順路は時計回りで、主屋の左の武器蔵、文庫蔵、秋田郷土館、武家道具館、ハイカラ館と続き、あたかも私設の博物館そのものといえよう。先ずは青柳家武器蔵。江戸時代からの文献や武具など数百点を収めている。青柳家が武器役として活躍した時代を偲ばせる。青柳家の宝である六十二間小星兜をはじめ、身分の高い武士だけに許された図柄の五輪塔旗印、重要文化財である秋田郷土刀など格調高い武家の暮らしぶりが窺える。

甲冑・刀剣・火縄銃などの武器のほかにも、着物・人形・陶磁器など生活用品も数多く展示されている。刀の鍔のコレクションも珍しい。

武器庫の左手の青柳庵ミュージアムは、文庫蔵に有する佐竹藩ゆかりの絵画を中心に、古文書・掛軸などを展示する。左が秋田蘭画創始者・小田野直武の唐美人図、中央が城主・佐竹義躬の牡丹蘭、右が同じく佐竹義躬の紫陽花の蘭画である。

これは江戸末期の女流書家・稲葉鯤女の掛軸である。越後の町医の娘で幼時から書にすぐれ、文政5年(1822)から江戸で活躍、その後京都にて光格天皇に書を見せて名を挙げる。のち大坂で、秋田久保田藩の御用商人と結婚した。

こちらは、京都の画家・龍野満黄の屏風絵である。明治29年(1896)青柳家に泊まり込んで描いたものである。

この地図は、江戸時代中期の地理学者・長久保赤水による「日本輿地路程全図」である。安永3年(1774)に作成され、安永8年(1779)には大坂で改正版が出版された。日本人が出版した初めての経緯線が入った日本地図で、通称「赤水図」と呼ばれる。北海道や沖縄を除く日本全図だが、伊能忠敬が作成した「大日本沿海輿地全図(伊能図)」より42年も前に作られ、伊能図が江戸幕府により厳重に管理されていたため、明治初期まで一般に広く使われ、約100年間に8版を数えた。10里1寸で、縮尺は約130万分の1となり、6色刷りだった。竹島が当時の名称「松島」で記されていて、日本の領有を裏付ける資料としてしばしば引用される。