半坪ビオトープの日記

ニッカ余市蒸留所


日本のウィスキーの父といわれる竹鶴政孝は、1934年、余市に蒸留所を建設した。欧州の城郭を思わせる石造りの正門を始め、創業当時から残る貴重な建物が多く残されている。15万平方メートルの余市蒸留所見学はこの正門からスタートする。

竹鶴政孝は1894年、広島の造り酒屋に生まれ、大阪で醸造を学んだが、1918年に単身スコットランドへ旅立った。そこで本格的ウイスキー造りを学び、1920年に生涯の伴侶リタを伴い帰国した。正門を入ってすぐ右手に見えるのがキルン塔(乾燥塔)である。特徴的な赤い「パゴタ屋根」は蒸留所のシンボルとなっている。内部は大きな釜戸のような構造で、ビート(草灰)を燃やした煙で大麦をいぶしながら乾燥させ、発芽を止めて大麦麦芽を作っている。

斜向かいの左手にある建物は、単式蒸留器(ポットスチル)が並ぶ蒸留塔である。

昔ながらの石炭による「石炭直火蒸留」が行われている。この蒸留法は世界の中でここのみとなっている。釜の上部に巻かれる注連縄は、創業者竹鶴政孝の実家が造り酒屋だったので、その風習を取り入れているという。 

左右の建物の間に建っているのは、昭和9年に建てられた旧事務所である。創立当時、ウイスキーは貯蔵する一方ですぐに商品化ができなかった。余市で採れるリンゴ等の果物を使い、ジュースやジャム等を製造していたので、社名を「大日本果汁株式会社」と名乗り、昭和27年に「ニッカウヰスキー」と社名変更した。旧事務所の左側には混和塔がある。

旧事務所の右手に建っている大きな建物は、発酵塔である。糖化液は発酵槽に移され、酵母を加えて発酵させられる。約72時間後、アルコール度数7〜8%のビール状のもろみができたら、地下のパイプで蒸留工場のポットスチルに送られる。

旧事務所の先、左側にリタハウスが建っている。この工場敷地は但馬八十次という人のものだったが、工場設立時に敷地にあった住宅を購入し、事務所と研究室に使っていた。その後、竹鶴政孝の妻・リタにちなみリタハウスと呼ばれている。主屋は傾斜のきつい切妻屋根で、その背後に直行するように棟の長い切妻屋根の従棟がつながっている。優れた意匠の洋館で、国の登録有形文化財に指定されている。

リタハウスの右手(北西)、発酵塔の左手(西)の広い敷地に背の高い細い給水塔が建っている。仕込みに使う地下水を組んでいるという。ちなみにニッカウヰスキーの「ヰ」の字も井戸の「井」からとっているという。

リタハウスの右先の木々の間に、ひっそりと創業者竹鶴政孝の胸像が安置されている。

竹鶴政孝像の向かいには、和洋折衷の旧竹鶴邸が建っている。竹鶴夫婦が使用していた余市町の郊外、山田町の住居を平成14年に工場内に移築復元し、玄関ホールと庭園を公開している。

旧竹鶴邸の先、左側に細長い1号貯蔵庫が建っている。創立時に建てられたこの場所は、当時は余市川の中洲だったという。床は土のままで適度な湿度が保てるよう、外壁は石造りで夏でも冷気が保てるように設計されている。

樽の中の原酒は木目を通して呼吸し、少しずつ熟成が進み、20年で約1/2ほど蒸発する。そのことを「エンジェルシェア」天使の分け前と一般的にいわれている。見学用のこの樽は空樽である。
1号貯蔵庫の向かいには貯蔵庫2棟を改装したウイスキー博物館があり、「ウイスキー館」ではウイスキーの歴史や道具、製造工程を学べる。「ニッカ館」では創業者夫妻の物語などの資料がたくさん展示されている。

最後の突き当たりにニッカ会館がある。1階には売店やレストランがあり、2階には無料の試飲コーナーがある。ニッカ会館の向かいには大きなポットスチルのオブジェがあり、触ることもできる。