半坪ビオトープの日記

永昌寺


関金温泉から倉吉市街地に向い数km手前の東、岩倉に曹洞宗の永昌寺がある。十三重石塔や宝塔などで知られる。

門前右手には、近くの岩倉城跡周辺で出土した、鎌倉時代から南北朝時代の石仏や五輪塔、宝篋印塔、宝塔などがたくさん集められている。

久宝山永昌寺の開創は不詳だが、元禄時代に秀山可春により中興開山されている。本尊は、十一面観音である。

境内に建つ十三重石塔は、輝石安山岩製で総高4.12mあり、鎌倉時代の作である。近くの小鴨氏が居城としていた岩倉城跡山麓で出土したものを一部補修したもので、県の指定保護文化財となっている。笠石の軒の反り返り、上と下の笠石の長さの違いなどが全体的に調和を示し、美しく安定している。

十三重石塔の左手にも、石造宝塔や多宝塔、石碑や石仏などがたくさん並べられている。

中でも多宝塔の右に並ぶ三つの宝塔は、宝塔の笠を宝篋印塔の笠にかえた、いわゆる赤碕塔の形態をもつものとして注目されている。東伯耆塔とも呼ばれる。右から第一、第二、第三号塔と呼ばれ、三つとも鎌倉時代の凝灰岩製である。

一番右の高さ48.8cmの第一号塔は、正面に法華曼荼羅を種子で刻み、側面から背面に胎蔵界大日と金剛界四仏の種子を刻んだ、きわめて珍しい密教系の宝塔である。
宝篋印塔式の笠で、下二段・上五段の段型をつくり、四隅の隅飾りは欠失する。塔身上端は、一段の首部をつくる。塔身下部に、赤碕塔特有の大きな単弁の反花(かえりばな)を巡らしている。

石造物群の左手に、小さな社が祀られていたが、詳細は不明。だが、神仏習合の名残であろう。

永昌寺に多数保存されている石造物は、近くの岩倉城跡周辺で出土した。鎌倉時代に岩倉山(247m)上に城を築いた小鴨氏は、律令時代・奈良・平安時代に既に名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。小鴨氏と岩倉城の歴史を概略すると、大永4年(1524)尼子氏が出雲より侵攻し、伯耆のすべての城とともに小鴨氏の岩倉城も落城した。天正7年(1579)小鴨氏は毛利氏から離れて織田氏に帰属したが、天正10年(1582)に毛利氏に攻められ落城し、岩倉城の歴史は幕を閉じた。