半坪ビオトープの日記

宇佐八幡神社


野々宮神社から信濃宮の下を抜けて東南に続く細い山道を進むと、すぐに小渋温泉を右に分けますます山深くなっていく。渓谷から離れて上っていくと、小渋川の前方に南アルプスの山並みが見えてくる。11月中旬なので既に雪も積もっている。赤石岳(3120m)であろう。

ようやく大鹿村最奧の集落である釜沢地区にたどり着く。年末には、まばらに見える14戸が全戸総出で神社の大祓を行い、新年を迎える準備をするそうだ。宗良親王が30年余り居住したという御所平は、この先2km以上奥にある。宗良親王大鹿村大河原地区に入村当時、鹿塩の塩水を山を越えて釜沢の奥の御所平まで運んだという記録があるという。神社のすぐ下の寺屋敷は宗良親王の子・尹良(ゆきよし)親王の菩提所・大龍寺の跡と伝えられ、その一隅にある釈迦堂内には元寺屋敷にあった長谷庵の本尊と伝わる木造の仏像が安置されているという。

山道から左に分かれて道なき斜面を上っていくとすぐに宇佐八幡神社が見えてきた。

鳥居の先の石垣の上に宇佐八幡神社の拝殿が建っている。

横から眺めると随分急な斜面に建てられていると思う。狭い境内の奥に宗良親王の宝篋印塔の覆い屋が認められる。

境内から見上げると拝殿の裏手に本殿が建っているのがかろうじて見える。応神天皇尹良親王を主神として祀っている。

これが宗良親王の墓と伝えられる宝篋印塔である。後醍醐天皇の皇子達の多くは短命だが、征夷大将軍まで務めた宗良親王は80歳近くまで生きている。後醍醐天皇の第8皇子・宗良(むねよし)親王は、元徳2年(1330)天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国流罪となる。父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊した後、吉野の南朝方として活躍する。

その後、北朝方に追われ、越後や越中を経て、興国5年(1344、大鹿村では興国4年としている)に現在の大鹿村大河原に落ち着いた。その後、30年余りこの地を拠点として信濃の宮と呼ばれる。観応2年(1351)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には、新田義興とともに鎌倉を占領し、翌年には征夷大将軍に任じられたが長続きせず、再び大河原に戻る。晩年に吉野に戻り、また大河原にも戻ったことが分かっているが、終焉場所は確定していない。遠江国井伊城説などもあるが、醍醐寺文書から抜粋された三宝院文書による、大河原で薨去したとする説が有力視されている。
歌道の家であった二条家出身の母から生まれた宗良親王は、幼い頃から和歌に親しみ、南北朝随一の歌人と称せられ、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」がある。大河原・御所平の風景を詠んだ「いづかたも山の端近き柴の戸は 月見る空やすくなかるらむ」の歌は有名である。

宝篋印塔の石質は、多孔性安山岩で通称伊豆石、室町時代初期の建立である。伝承によると、地元では九輪之塔と呼び、宗良親王の墓標塔として祀っていた。塔身には四面に四種の梵字があり、蓋上部四隅には馬耳型突起が見られる。室町時代初期の姿を示し、宗良親王の大河原薨去説を裏付ける貴重な史跡とされる。この塔の苔を煎じて服用すれば、おこり病にかからないと語り伝えられている。

宝篋印塔の左後ろには庚申塔が祀られている。古くから街道沿いや村境に置かれて塞ぎの神として信仰され、寺社の境内に移転されたものも多い。