半坪ビオトープの日記

ろくべん館


御所平から大河原中心部に戻り、小渋川の河原に面したろくべん館に寄ってみた。橋の向こうには大鹿小学校が見え、その裏に大磧神社があり、右手奥に福徳寺がある上蔵地区がある。

ろくべん館とは大鹿村郷土資料館のことで、その名「ろくべん」とは大鹿村に古くから残る一人用の重箱弁当「どくべん」が訛ったものである。主に5〜6段重ねの弁当箱で、村人は歌舞伎上演の際にその重箱を広げて芝居見物をした。

ろくべん館は古い歴史を伝える大鹿村独特の民俗文化を紹介する資料館で、村民の暮らしを伝える民具や大鹿歌舞伎など約150点を展示している。なかなか直接見ることができない大鹿歌舞伎の写真はとても参考になる。

大鹿歌舞伎は全てが村人の手作りで演じられ、神社の境内で舞台と桟敷が一つになって盛り上がる。大阪の国立文楽劇場で地芝居として初めて檜舞台を踏んだが、それ以前に国内各地での公演や海外公演も行っている。

大鹿歌舞伎は娯楽の少ない山村での唯一最大の娯楽でもあり、幼い頃から子守唄代わりに名台詞や義太夫の名調子が耳に入っていて、家族中で稽古や準備、観劇を重ねる中で絶えることなく伝えられてきた。鹿塩地区に舞台の衣装、かつら、道具すべてを揃えて、村人だけで上演する。

江戸末期に熱狂的になった村歌舞伎は、幕府の度々の禁止令にもかかわらず続けられたが、急峻な山々に囲まれた耕地の少ない山村の神社やお堂の境内に最大13カ所歌舞伎舞台が設けられたことが不思議でならない。当時わずか数十戸の集落にも舞台が造られたという。

大鹿村の山林原野は村の面積の95%以上を占めるので古くから森林資源を頼りにしてきた。江戸時代の年貢は「榑木」という材木を幕府に納めた。それ以外の雑木からは、薄板曲輪・絵馬板・櫛・経木などを作って出荷した。木挽き職人の道具もたくさん展示されている。

村の宅地は斜面が多く、昔の農家は土間の中に馬屋があって、家畜は家族同様大切にされた。居間には「ひばた」と呼ばれる囲炉裏があり、屋根は栗の「へぎ板」で葺かれ、重しの石が置かれていた。大切に使われたであろう釜や桶、農機具なども展示されている。

農地がほとんど斜面にあるため、昔から焼畑による開墾が繰り返されてきた。作物は米が少なく、麦や大豆などの雑穀が主流であった。