半坪ビオトープの日記

市場神社


大河原地区から再び北に向かって鹿塩地区に戻り、大鹿村の最後に市場神社を訪れた。鹿塩温泉に向かう塩川の分岐点にある市場神社は、小さな塩河公会堂の脇の石段を上っていく。

塩河公会堂の裏には、いわくありげな古びた小さな社が祀られていた。屋根はほとんど壊れかけてぼろぼろだが、4つの紙垂を垂らした細いしめ縄が張られているので、今でもお参りされているのは確かであるが詳細は不明である。

大鹿歌舞伎が文書上の記録として初めて登場するのは、明和4年(1767)に鹿塩村で上演された狂言とされている(前島家文書)。幕府や政府の禁止にもかかわらず、庶民の娯楽として300年以上にわたり上演されてきた地芝居である。現在では春と秋の1年2回の定期公演が行われ、春は大河原の大磧神社舞台、秋は鹿塩の市場神社舞台が使用される。
市場神社の舞台は、切妻造木造2階建、間口6間、奥行4間、太夫座、回り舞台付、平を正面とする。嘉永4年(1851)建立で、昭和47年に改修。
大鹿歌舞伎の上演外題は30演目以上にのぼり、その中で源平合戦の「六千両後日之文章重忠館の段」は、大鹿村にのみ伝わる外題である。2000年には地芝居として初めて国立文楽劇場での上演を果たし、2011年には歌舞伎とそれにまつわる騒動を描いた「大鹿村騒動記」として映画化された。大鹿歌舞伎は国の選択無形民俗文化財に指定されている。

舞台の手前は歌舞伎のための広場となっていて、その右手一段高いところに市場神社の社殿が建っている。古くは八幡社と称していた。祭神は八幡大神応神天皇)のみならず、豊受大神・健御名方命須佐之男命が祭祀されていた。明治36年に市場5耕地は各耕地に祀っていた神社を塩川八幡社へ合祀し、社号を市場神社と改称した。

右手へ鳥居の前に進むと、鳥居の右手に御柱が立っていて、さらにその先にも小さな社が祀られている。

鳥居を潜ると古めかしい拝殿が建っている。大きな縦の扁額にはかすかに市場神社と書かれているのが認められるが、まわりに掲げられている額は奉納額なのか絵馬なのかもわからない。

市場神社本殿の中を覗いてみるといくつもの社が並んで祀られている。小渋川に作られた小渋ダム建設で複数の集落が沈んだため廃社となった白沢神社(祭神伊邪那岐命伊邪那美命)ほか多くの社を昭和39年に市場神社に合祀したそうだ。旧桶谷集落にあった白沢神社(白沢権現)ではそれまで「猪鹿除け」のお札を出していたという。
脇に立つ筒は花火の筒である。8月中旬の大鹿夏祭りの際、大西公園で花火が打ち上げられる。

市場神社を見た後、大鹿村から高遠に向かう。鹿塩川に沿って細い秋葉街道を進むと、分杭峠の手前、中央構造線の断層が見える北川路頭の近く、右側に小さな神社が認められた。