半坪ビオトープの日記

福徳寺、野々宮神社


鹿塩川を下り、小渋川に合流する直前に左に曲がって橋を渡ると、左手に村役場があり、右手には小渋川に沿って渓谷が伊那谷に向かっている。

大鹿村南部の大河原地区は、南北朝時代には秋葉街道を経由して、遠江から奈良・吉野の南朝勢力と結びついており、後醍醐天皇の第8皇子宗良親王が30年余りの間拠点とした地である。上蔵(わぞう)集落に福徳寺本堂が建っている。
福徳寺本堂の建築経緯は不明だが、仏像台座の墨書に平治2年(1160)とあり平安時代末期と伝えられていたが、昭和28年の解体修理の結果、せいぜい室町時代前期とされ、その頃天台座主であった宗良親王が建てたと推測されている。長野県では上田市の中禅寺に次ぐ古さの仏堂である。
斜面に沿って南の左手に下っていくと、小渋川の急流を望む断崖絶壁に大河原城址がある。南北朝時代宗良親王を守護した香坂高宗の居城跡である。香坂高宗の墓は、右手(北)の高台にある。

福徳寺本堂は、阿弥陀堂形式で桁行3間、梁間3間、入母屋造杮葺で、組物は隅柱のみ舟肘木を設け、軒一重疎垂木木舞打ちの簡素な建物ながら、洗練された優美な姿から中央の寺院建築文化の風格が漂い、国の重文に指定されている。
堂内に安置されている仏像は、中央に薬師如来坐像阿弥陀如来坐像が並存し、毘沙門天・聖観世音菩薩の2体が脇に配される。医王山福徳寺の山号天台宗系寺院のものであるから、本尊は薬師如来と考えられている。

福徳寺には、昼間に扉を開けると災害が起こるという信仰があり、天保10年(1839)に老中水野忠邦がこのお堂を浜松に持って行こうとしたが、村民に反対され断念したという。
本堂の右手前には、小さな梵鐘が吊り下げられている。

梵鐘のさらに右手前には墓石が立ち並び、その右奥の山中には宗良親王を祀った信濃宮神社がある。

信濃宮神社は比較的新しい神社なので、その手前にある野々宮神社を訪れた。狭い道の脇に参道の石段と石の鳥居がある。

石段を上ると広場となっていて左手に野々宮神社舞台が建っている。明治22年(1889)再建の野々宮神社舞台は、間口6間、奥行4間の2階建ての舞台で、屋根は1階に庇が付く形、2階屋根は入母屋造のトタン葺きである。太夫座は舞台上手にあり、チョボと下座が上下に分かれている。花道は上演の際に仮設される。中央には3間の回り舞台が設けられ、奈落で押し回す仕組みになっている。上蔵は明治から大正期にかけて浄瑠璃語りの太夫を輩出し、歌舞伎熱の高い地区であった。
資料によれば大鹿村には13の舞台があったといわれ、小学校に転用されたり災害にあったりして現存するのは4棟である。野々宮神社舞台では現在、駐車場がないため歌舞伎の上演はほとんど行われていない。十数年前に小沢征爾とチェロの巨匠パブロ・カザルスの演奏があったという。
舞台右手前には大きな御柱が立っている。飯田・下伊那地域でも7年に一度の諏訪大社御柱の年には御柱祭が実施される。最近では平成22年(2010)に、大鹿村でも葦原神社、市場神社、大磧神社、野々宮神社の4社で行われた。野々宮神社の御柱祭の里曳きに使われたモミの木は直径約60cm、長さ約12mだったといわれ、舞台右手前に立てられている。

舞台のある広場の境内から一段上がったところに野々宮神社の社殿が建っている。妻入り型の拝殿が、広場に向かっている。

左脇から見ると、拝殿の後ろに本殿を垣間見ることができる。

拝殿の中を覗くと、がらんどうの拝殿の奥に小さめの本殿が続いている。祭神として火之迦具土神を祀っている。