半坪ビオトープの日記

福徳稲荷神社


明けましておめでとうございます。また、米沢の史跡巡りを続けます。
上杉神社再建の設計者である伊東忠太は、明治神宮平安神宮の設計でも知られる。

忠太自身が「殊に本殿廻りの一区はよく引きしまり落ち着きがあって清純純潔の感が深い」と感想を述べているように、再建された唐門や透塀、檜造りの本殿・拝殿などに日本建築の美が感じられる。

拝殿の後ろに続く本殿も重厚な感じがする。破風板の合掌にある拝懸魚と桁の突出する左右の降懸魚の形が同形の猪目懸魚なのが興味深い。

大正12年に本殿と同じく伊東忠太の設計により、鉄筋コンクリートで建てられた、重層切妻造りの宝物館「稽照殿」には、謙信、景勝、兼続、鷹山の遺品を中心に平安時代から江戸時代までの甲冑、武具、絵画、書跡、仏具、服飾類など多種多様の資料が収蔵展示されている。

境内の稽照殿手前にひっそりと石碑が立っている。赤穂事件殉難追悼碑である。米沢四代目藩主上杉綱勝は後継者なく急死したため、正室の媛姫の妹富子が嫁いだ吉良上野介との間に生まれた子を米沢五代目藩主とした。赤穂浪士吉良邸討ち入り事件で、吉良邸で奮戦した元米沢藩士を米沢では追悼している。忠臣蔵赤穂浪士が義士扱いされるのと逆の評価である。

稽照殿の右手には福徳稲荷神社の参道があり、赤い鳥居が建っている。この神社は、享保10年(1725)上杉氏第7代宗憲が、城内の鎮護として二の丸に建立したものである。

福徳稲荷神社は、明治9年に鷹山の信仰篤かった三の丸にあった稲荷祠を合祀して、上杉神社境内に移し末社としたという。

さて、拝殿から境内を戻って行くと、右手の高台の上に招魂碑が建っている。この碑は、戊辰戦争および西南戦争明治10年)で戦死した郷土の人の慰霊碑である。高さ3.4mの凝灰岩からなる四角柱で、台座をあわせると5.8mになる。

米沢城下で最も高く造られたこの高台は、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた所で、今では祠堂跡の碑が建っている。明治5年、御堂のまま謙信を祭神に改め、併せて鷹山と共に合祀し上杉神社とした。明治9年に上杉神社は本丸跡に社殿を建てて移動し、謙信の遺骸は御廟所へ移された。本丸跡にあった御堂は解体・移築されて、北寺町にある長命寺本堂として現存している。