半坪ビオトープの日記

米沢城跡、上杉神社


米沢市内に入りまず訪れたのは、上杉神社がある米沢城跡である。米沢城は、暦仁元年(1238)長井荘地頭大江時広が城館を置いたことに始まるという。戦国時代末に秀吉は上杉景勝会津に、その家臣直江兼続を米沢に入れた。兼続が築いた米沢城は、天守閣や高い石垣を築かず、本丸は館と堀・土居で構成され、防御機能は城下町の広がりの中に持たせるという典型的な東日本の城である。明治9年に上杉謙信上杉鷹山を祭神として、本丸跡に上杉神社が建立された。現在は松が岬公園として、本丸跡に謙信を祀る上杉神社春日神社などがあり、手前の二の丸跡に鷹山などを祀る松岬神社がある。舞鶴橋のたもとにたなびく「毘」と「龍」の旗は、上杉軍の軍旗である。「毘」は戦の神様、毘沙門天を、「龍」は不動明王の俱梨伽羅剣に巻き付く仏敵を倒す龍を表しているという。

舞鶴橋を渡って境内に入ると、すぐ右手に上杉謙信像がある。天正6年(1578)の上杉謙信急死に始まる跡目争いに勝利した景勝と家臣の直江兼続は、謙信の遺骸を甕に入れて春日城内に祀った。遺骸は上杉氏の転封とともに米沢に移り、米沢城本丸高台の祠堂に安置された。明治9年に遺骨は歴代藩主が眠る上杉家御廟所に移された。

さらに参道右側に、上杉景勝直江兼続の主従の銅像が建っている。大河ドラマ記念で、最近建立されたばかりである。兼続が持つ「愛」の兜の本物は、稽照殿(宝物殿)に展示してある。

参道左側には、伊達政宗生誕の地の石碑が建っている。仙台藩初代藩主・伊達政宗は、永禄10年(1567)米沢城で生まれ、天正12年(1584)に18歳で家督を継ぎ、米沢城主となった。25歳で転封するまでほとんど米沢城を居城とした。

次に参道右側に、名君の誉れ高い第9代藩主上杉鷹山の銅像がある。120万石から30万石に減封された関ヶ原以来、苦しい経営で火の車となっていた米沢15万石の藩主に17歳でなり、質素倹約や殖産興業で藩の経済を建て直した江戸時代随一の名君といわれる。「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」の名言が有名である。

明治になって上杉謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移された際、その守護のため祭祀を執り行ってきた法音寺も廟所前に移転した。さらに城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。姓を大乗寺とし、現在も宮司職を務めている。

石造の鳥居をくぐると、中にも木製の鳥居が建っている。

上杉神社は、大正8年、舘山口町から出火した米沢大火で類焼、本殿などほとんどの建物が焼け落ちた。大正12年に、米沢出身の神社建築第一人者、伊東忠太の設計によって再建された。

精巧に造られた透塀や唐門(神門)の中に、質素な雰囲気の拝殿が厳かに建っている。