半坪ビオトープの日記

二宮赤城神社、本殿


二宮赤城神社の創建は不詳だが、社伝では垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられている。建久5年(1194)には源頼朝が社殿を再建し、社領100石が寄進され社運が隆盛した。戦国時代の永禄年間(1558~70)小田原北条氏の兵火に見舞わられ、社殿をはじめ社宝、記録等が焼失したが、その後領主となった牧野氏や前橋藩主・酒井氏、松平氏に庇護され再び隆盛した。

拝殿の後ろ、幣殿に続く本殿はやや小振りで、大きい覆屋で保護されている。

主祭神は三夜沢赤城神社と同じく、大己貴命豊城入彦命を祀っている。本殿の妻壁の架構も複雑に構成され、二重虹梁下の彫物も独特の意匠となっている。

本殿右手には、境内社日枝神社が建っている。

本殿後方右側、日枝神社の裏手には道祖神や石祠が祀られ、鳥居の奥には秋葉神社が祀られている。

秋葉神社とは、神仏習合のいわゆる火伏せの神で、秋葉大権現として広く信仰されている。

境内右側には、まだ新しい神楽殿と、その右に古い舞台が建っている。当神社には、太々神楽雅楽・式三番叟が伝えられ、演じられ奉納されている。この式三番叟は、農村歌舞伎・地芝居・神楽が融合したもので、神社の古式神事と結びつく貴重なものであり、市の重要無形民俗文化財に指定されている。当社には、享徳2年(1453)神社再興の際に作られたと推定される納曽利面があり、県の重文に指定されている。舞楽の面で、納曽利には陵王が舞われる。陵王は竜王と解され、雨乞いでよく舞われる舞楽である。

本殿右奥の林の中に、鎌倉時代のものと推定される、舎利孔をもつ塔心礎がある。神仏習合による神宮寺の塔跡とされる。

本殿左裏手にある宝塔は、南北朝時代のものとされ、前橋市の重文に指定されている。天台宗法華経信仰によるものと考えられる。同種の宝塔は赤城山麓に広く分布し、「赤城塔」とも呼ばれる。

境内左側に立つ茅葺の建物は、かつては十二天といい、仏教でいう十二天を祀っていたのだが、神仏分離以後は神輿倉として使われているそうだ。

茅葺の神輿倉の右手には、天満宮が祀られている。菅原道真を祭神として祀る、いわゆる天神様である。

もう一度境内を振り返ってみると、本殿の右側には境内社日枝神社が、その右に校倉様の収蔵庫、さらに右手に神楽殿と舞台が建っている。
これで、4月中旬に出かけた赤城山周辺の史跡巡りを終えた。その中で特に印象に残ったのは、川場村の吉祥寺と武尊神社であった。