半坪ビオトープの日記

気多大社、白山神社


気多大社が初めて文献に見えるのは万葉集である。天平20年(748)越中守・大伴家持が出挙のため能登を巡幸したとき、本社に参詣して「之乎路から直超え来れば羽咋の海 朝凪ぎしたり船楫もがも」と詠んでいる。
気多神社本殿の右手に並んで、摂社白山神社本殿が祀られている。気多神社本殿と同年の棟札があり、同時に同じ大工により造られている。

3間社流造り檜皮葺きで、内陣の形式は本社本殿に準じており、本殿に合わせて規模意匠を整えている。菊理姫命を祭神として祀っている。

白山神社の右隣には小さな神庫が建っている。方1間の校倉造檜皮葺きで、本殿と同じく天明7年の造営。もとは宝蔵と呼ばれていた。

神庫の右手には、鳥居だけの揚田神社がある。社殿はないが、荒御魂神あるいは迦具土命を祀っているという。ここから境内裏手にかけて、約3万㎡の原生林の社叢が広がっている。「入らずの森」として立入り禁止となっている。社叢内には、タブの木をはじめ、ツバキ、シイ、クスノキ、カラタチなどの常緑広葉樹が密生し、樹齢100年を超える木々が林立していて、国の天然記念物に指定されている。奥には、一般の参拝はできないが、素戔嗚尊奇稲田姫命を祭神として祀る奥宮が安置されている。

さらに右手の林の中に、摂社の太玉神社が建っている。祭神は、天太玉神を祀っている。元は神幸殿、講堂と呼ばれていたという。

さらに右手の道を下っていくと、左手奥に菅原道真を祀る菅原神社が建っている。

ようやく神門前の広場に戻り、帰りかけると右手に養老大黒像奉安殿があった。その横には、奥津島姫命を祀る小さな奥津島神社が、ひっそりと鎮座していた。

駐車場の奥にトイレがあり、その裏手に元神宮寺の正覚院が見えた。越前・平泉寺を開基した泰澄大師が伊勢内外宮を参拝しての帰り、夢枕の歌として「恋しくば尋ねても見よ能く登る 一つの宮の奥の社へ」のお告げを受け、かの地に神宮寺を創建したという。その一院が真言宗の鶴亀蓬莱山正覚院である。千年以上にわたって気多大社の神宮寺で別当寺であったが、明治初頭の神仏分離で主要な寺院の長福院・地蔵院・薬師院などが廃退するなか、ただ一つ存続しているという。よく見ると、気多大社本殿に向かって建っている。