半坪ビオトープの日記

二宮赤城神社、拝殿


赤城山山麓南面、二ノ宮町に赤城山を背にして、二宮赤城神社が鎮座している。この赤城山麓の二宮赤城神社は、赤城山頂の大洞赤城神社、山腹の三夜沢赤城神社と、延喜式神名帳名神大社である上野国勢多郡赤城神社の論社となっているが、いまだに確定していない。

真っ直ぐな参道が随神門まで伸びていて、その右側に神仏習合の名残である鐘楼堂が建っている。梵鐘は、元和9年(1623)の銘があり、赤城山神宮寺に奉納されたもので、市の重文に指定されている。鐘は高さ127cm、直径72cmで、御神幸の儀式の時のみ撞かれる。

鐘楼堂の右手には、アブラナ科オオアラセイトウ(大紫羅欄花、Orychophragmus violaceus)が群生している。中国原産で、遅くも19世紀末には日本に渡来したが、たくましい生命力で全国各地に野生化している。別名として、ショカッサイ(諸葛菜諸葛孔明が広めたとの伝説から)、ムラサキハナナ(紫花菜)とも呼ばれる。若い葉が食べられる越年草で、種子からアブラナ同様油を採取することもできる。

朱色の神代橋という神橋の向こうに随神門が建っている。境内には堀と土塁が廻らされているが、中世における社地の形態をよく伝える環濠遺構であり、市の史跡に指定されている。神社の東北方には、4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。

随神門の入口右脇には、五角柱の社日様が祀られ、「天照大神」「倉稲魂神」「大己貴神」「埴安媛神」「少彦名神」と彫られている。社日とは、古代中国に由来し、春分秋分に最も近い戊(つちのえ)の日をいう。この日に産土神・田の神に参拝し、豊作を祈願・感謝する農耕儀礼であり、この日は農作業など土をいじることを忌む風習が各地に見られる。

随神門の左右には、弓矢を持った右大臣、左大臣が睨みを利かせている。随神門から境内を覗くと、正面に拝殿が建っている。

数ある赤城神社の中でも唯一「二宮」を称し、遅くとも鎌倉時代には里宮として赤城信仰の中心をなしていたと考えられている。

三夜沢赤城神社二宮赤城神社との関係は深く、4月・11月の年2回両社間で神輿の渡御(御神体を往復する御神幸)がある。御神体は神鉾・神衣(かむみそ)であり、娘神である二宮が、父神である三夜沢赤城神社へ、衣替えのため渡御するという伝承がある。

拝殿の左右2対4面の絵馬は、前橋藩主・酒井雅楽頭と大胡藩主・牧野忠成による奉納で、市の重文に指定されている。後者は、元和元年(1615)大坂夏の陣に際し奉納されたと伝えられている。

拝殿を横から見ると、向拝が著しく前に突き出しているのが分かる。