半坪ビオトープの日記

三夜沢赤城神社


赤城山の南側山腹の三夜沢町に、三夜沢赤城神社が鎮座している。赤城山頂の大洞赤城神社山麓二宮赤城神社と、延喜式神名帳名神大社である上野国勢多郡赤城神社の論社となっているが確定していない。

創建は不詳だが、神社の由緒によれば、上代豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのが始まりとされる。赤城信仰の中心を成し、神社の背後の荒山の中腹には、「櫃石」と呼ばれる磐座を中心とした祭祀跡が残っており、祭祀に用いた6世紀中葉の土器や、鏡・剣などを模した石製品が出土し、古代祭祀の様子が窺えるという。

境内を進むと、右手に神池があり、その手前にサワラ(椹)の巨木が聳えている。推定樹齢250年、樹高28m、幹周2.95m、根元周4.3mと見事である。

なおも参道を進むと、右手に漢字が伝わる以前に存在したといわれる「神代文字碑」がある。復古神道の遺物として明治3年に建碑された。碑文は平田鐵胤(篤胤の養子)、神文は延胤(鐵胤の子)による撰文。神文「マナヒトコロノナレルコヱヨシ」は、対馬の阿比留家に伝わる阿比留文字で書かれている。

慶安2年(1649)厩橋(前橋)城主・酒井忠世により50石の寄進を受け、復古思想の影響により崇神天皇の皇子・豊城入彦命主祭神とし赤城神社と改め、宝暦12年(1762)正一位に叙せられた。

明治時代以前は東西2宮であったが、明治以後は1宮となり、明治2年に現社殿(本殿と中門)上棟祝の記録が残る。明治27年(1894)拝殿を焼失、のち再建した。拝殿は切妻造平入りで、向拝は設けられていない。

「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」と金槐集の源実朝の歌にあるように、将軍をはじめ武将達の崇敬を集めた。拝殿にも千木と鰹木があげられている。

本殿前に立つ中門は、切妻造銅板葺きの四脚門で、本殿とともに県の有形文化財に指定されている。

本殿は、正面3間、側面2間、切妻造平入の神明造で銅板葺き。千木は内削ぎで8本の鰹木をあげる。普通、千木の内削ぎは女神、偶数の鰹木は女神とされるが、祭神は、赤城神・大己貴命豊城入彦命を祀っていてどちらも男神である。大洞赤城神社の本殿が外削ぎの千木と5本の鰹木をあげているのと対照的である。
赤城神社式内社であり、上野国の二宮である。伝承では、本来一宮であったが、財の君である貫前の女神を信濃国に渡してはならないと、女神に一宮を譲ったという。別に、上野国赤城神社榛名神社貫前神社の神様は、実は三姉妹であったという一宮伝承もある。三姉妹の女神達が高天原の神々に対して本職の絹織物を献上する時に、当時一宮であった赤城神社姫大神は、機織りの道具(くだ)が不足したため、外国から来て機織りが上手な貫前神社姫大神から道具を借りてようやく織物をつくることができた。その功績に基づき、その後、貫前神社を一宮にしたという。
明治2年の造営当時の神仏分離復古神道の影響が見られる。本殿内には、神座として祀られる宮殿がある。扉裏の墨書には「源成繁寄納」とあり、新田金山城主・由良成繁の奉納とされる。木造宝形造板葺きで、高さは117cm。粽付の柱、桟唐戸など禅宗様を用い、室町時代の特徴を示す。本殿背後の森の中には、多くの石祠がある。

タワラ杉は、中門南側とその西隣に立つ樹高60mにもなる3本のスギの大木の名である。藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野国府に向かう途中、献木として植えたと伝えられ、県の天然記念物に指定されている。

楽殿は、県の重文に指定されている。また、ここで奉納される伝統的な太々神楽は、岩戸神楽の系統で、貞享元年(1684)に京都より伝承されたといわれ、県の無形文化財に指定されている。