半坪ビオトープの日記

天佐志比古命神社

天佐志比古命神社(一宮神社)

知夫村役場の近くの宇都に、天佐志比古命神社(一宮神社)がある。反りが強い一の鳥居の扁額には「一宮神社」と書かれているように、地元では「一宮(いっくう)さん」と呼ばれる。

天佐志比古命神社の狛犬
参道の右脇に立つ出雲型狛犬は、隠岐ではよく見かける子連れ獅子である。その右手には境内社があるが、詳細は不明。

検校の石
参道の左手には、検校の石がある。延宝二年(1674)出雲日御碕神社の検校・小野尊俊は、彼の妻に横恋慕した松江藩の二代目藩主・松平綱隆により無実の罪に問われ、隠岐に流され、当地で没した。彼が座り続けて中心が凹んだといわれる石である。

天佐志比古命神社の社殿
石段の参道を上り詰めると満開の桜の向こうに社殿が構えている。太い出雲式の注連縄が重々しい。この神社は、「延喜式神名帳」の天佐志比古命神社に比定される式内社(小社)で、『続日本紀』に仁明天皇承和15年(848)、従五位下を叙されたとある古社である。

天佐志比古命神社の拝殿
社伝によると、祭神は天佐志比古命で、用明天皇の御代(586-87)、新府利の沖の中島・神島に出現し、中島に59年坐した後、孝徳天皇白雉4年(653)、新府利東浜詰岩上に上陸したという。初めは新府利(仁夫里)に鎮座していたが、万治2年(1659)現在地に遷座大己貴命の別号とする説もあるという。

天佐志比古命神社の本殿
現在の社殿が整備されたのは文政年間(1818-29)の頃とされる。本殿は拝殿の後ろの幣殿からも高くなって構えられ、向拝も含めて彫刻が施され、重厚な造りとなっている。

後醍醐天皇腰掛の石
この石は、後醍醐天皇腰掛の石という。元弘元年(1331後醍醐天皇は討幕に失敗し、隠岐に配流となった。その際、最初に知夫里島に上陸し、この神社を参詣した時に、この石に座って休憩されたと伝わっている。

廻り舞台を持つ芝居小屋
社殿の左手前の境内に芝居小屋が建っている。江戸時代の明和年間(1764-71)知夫湾に鯨の漂着があり、その後折悪く火災や疫病の流行が続いた。このように凶事が続くのは鯨が神慮を汚したためであるとされ、神慮を慰める方法として少年の手踊りを奉納し、それが毎年恒例の神事の中に組み込まれたのが始まりである。文政に入ると京都の流人僧・速了法師の指導により歌舞伎の要素が入り、明治になると本格的に村民による歌舞伎奉納が行われ現在に至っている。野外観覧席の廻り舞台を持つ芝居小屋は、本村と淡路島の文楽の二カ所のみが存在する貴重なもので、近年建て替えられはしたが、旧態を残しており、隠岐島前の文化財に指定されている。

知夫村郷土資料館、高津久横穴墓出土品
神社の近く(南東)に知夫村郷土資料館があった。高津久横穴墓出土の刀子や鉄鏃、高坏などが展示されている。

高津久横穴墓出土の太刀

他にも平瓶、脚付長頸壺、小型椀などがあり、錆び付いているが大きな太刀も展示されていた。知夫村には高津久横穴墓のほか、赤壁近くで見かけた猫ヶ岩屋古墳、石の唐櫃古墳などがあり、その全てから神島を見渡すことができるという。

オドリコソウ

道端に白い花が咲いていた。シソ科のオドリコソウ(Lamium album var.barbatum)という多年草。日本全国の野山や野原に群生する。葉は対生し、白色あるいは淡いピンク色の花を数個輪状になって茎の上部に数段になってつける。花の姿が傘を被った踊り子たちが並んだ姿に似る。花期は4〜6月。若葉は食用になり、花や根は薬用となる。