半坪ビオトープの日記

石山寺、多宝塔


経蔵の左に宝篋印塔が二つ建っているが、詳細は不明である。

経蔵の右側にも宝篋印塔がある。こちらの珍しい三重宝篋印塔は、高さ260cm、花崗岩製の鎌倉時代中期の作で、重要美術品に指定されている。初層軸部には、像高約20cmの蓮華座に坐す顕教四仏を半肉彫りする。石山寺ではこの三重宝篋印塔を紫式部の供養塔と伝えている。
右にある円柱石は、嘉永2年(1849)建立の芭蕉の句碑である。
「あけぼのはまだむらさきにほととぎす」
元禄3年(1690)芭蕉紫式部が『源氏物語』を執筆したといわれる「源氏の間」を拝観する。『芭蕉句選拾遺』には「あけぼのやまだ朔日にほとゝぎす」とある。

芭蕉句碑の右手の石段を登ると多宝塔に至るが、その石段の右下に鐘楼が建っている。この鐘楼は、桁行3間、梁間2間の重層で、袴腰を付け、屋根は入母屋造桧皮葺である。寺では源頼朝の寄進と伝えるが、様式などから鎌倉時代後期のものとして、国の重文に指定されている。

石段の上にある多宝塔は、建久5年(1194)に建立され、多宝塔の中でもとりわけ美しいといわれている。下層が方形、上層が円形の平面に裳階をつけ、宝形造桧皮葺の屋根をのせた二重の塔で、上下左右の広がりが美しく洗練され均整のよくとれた建築である。高さが17mあり、建築年代が判明している多宝塔としては最古のもので、国宝に指定されている。

多宝塔内部の柱や天井の周りなどの壁面には、仏像や草花など極彩色の絵が描かれている。本尊の木造大日如来坐像は、多宝塔と同時期に快慶により作られたという。像高102cm、寄木造で、表面に漆を塗り、写実的な衣には切金文様が施され、玉眼や衣のひだも洗練され、典型的な鎌倉時代初期の風格を備え、国の重文に指定されている。

多宝塔の西に宝篋印塔が二つ建っている。向かって左は、高さ182cm、花崗岩製の南北朝時代の作で、重文に指定されている。塔身四面に胎蔵界四仏の種子を薬研彫する。石山寺では、亀谷禅尼の供養塔と伝えている。
向かって右側の宝篋印塔は、高さ147cm、花崗岩製の南北朝時代の作で、塔身四面に金剛界四仏の種子を刻む。石山寺では、源頼朝の供養塔と伝えている。

多宝塔の右手に芭蕉庵へ行く道があり、その曲がり角にも宝篋印塔が二つ建っているが、残念ながら詳細はわからない。
その左奥には小さな社が建っている。駒札には、平成14年に建立された「若宮」とある。曰く「祭神に天照皇大神を拝し大友皇子弘文天皇)を祟る 壬申の乱の折、この地に葬られ古来より寺僧により手厚く密かに供養されてきました 三十八所権現社が親神にあたります」。三十八所権現社は、日本古来の神々以下三十八代目の天智天皇までを祀っているとされるが、大友皇子弘文天皇)は天智天皇の皇子で三十九代目であるから、親子関係であるのは間違いないが、何故密かに供養されてきたのかはわからない。壬申の乱では、近江軍(朝廷軍)の総大将である大友皇子は、石山寺近くの瀬田川決戦で大海人皇子軍に大敗して敗走し、近江国山前(やまさき)で自害したとされる。その山前がこの辺りなのであろう。

多宝塔の裏手に比較的新しい心経堂が垣間見られる。花山法皇(984~86)西国三十三所復興一千年記念行事の一環として平成2年に建立され、如意輪観世音菩薩と写経を納める輪蔵が安置されている。

若宮の左手、心経堂の向かいに芭蕉庵(非公開)と月見亭が並んで建っている。瀬田川の清流を見下ろす高台に設けられている左の月見亭は、近江八景「石山の名月」のシンボルになっている。後白河法皇行幸に際して建てられ、以下歴代天皇玉座とされた。
月見亭の右手に芭蕉ゆかりの茶室・芭蕉庵がある。俳聖松尾芭蕉は、たびたびここに仮住まいして、多くの句を残している。また、瀬田川周辺には、芭蕉ゆかりの地として墓地のある義仲寺の無名庵、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが点在している。

芭蕉庵から高台を西へと周回路が続くが、時間が限られているのでここで引き返す。帰り道は鐘楼前から御影堂の脇を通る。御影堂近くで硅灰石の崖が右手に続く。硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩接触し、その熱作用のために変質したものである。通常は大理石となるが、石山寺のように雄大な硅灰石は珍しい。石山寺の「石山」の起こりとなったもので、国の天然記念物に指定されている。