半坪ビオトープの日記


五浦、平潟のすぐ北は福島県になり、勿来の関公園がある。古代から歌枕になっている関の一つ、なこその関は江戸時代の終わり頃からは奥州三関の一つに数えられている。しかし所在地が諸説あるほか、存在自体を疑う説もあり、なぞだらけの関である。和歌などの文学作品以外の古代の資料に「なこその関」は見つかっていないし、考古学的な資料もない。江戸時代初期に今のいわき市勿来町関田字関山に「なこその関」を見立てるようになって観光地化した。

「吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな」と源義家が詠んだというこの辺りは、古くより桜の名所として知られ、公園の入口には源義家の騎馬像が建てられている。
源義家といえば前九年の役後三年の役という奥州を舞台とした合戦で活躍したことが知られている。前九年の役(1051~62)は、多賀国府(仙台)にいた将軍源頼義、義家親子が出羽の豪族清原氏の助けを借りて、陸奥の豪族安倍氏を滅亡させた戦いであり、その結果義家は従五位下出羽守となり、清原氏は奥羽に強大な支配力を打ち立てた。その20年後に清原一族に内紛が勃発し、家衡、清衡の異父弟が争った。妻子を家衡に殺された清衡が陸奥守兼鎮守府将軍になった義家に助けを求めたため、義家が介入して後三年の役(1083~87)が始まった。長い戦乱の後、清衡・義家軍が勝利し、清原氏は滅亡し、清衡は実父である藤原経清の姓・藤原に改め、以後、百年にわたる平泉黄金文化の礎を築いた。ところが凱旋将軍として京都に戻った義家に朝廷は後三年の役が私戦だったとして恩賞を与えず、さらに陸奥守も解任した。しかしそのことが却って関東の源氏の名声を高め、後の頼朝による鎌倉幕府創建のもとになったといわれている。

関所の入口に見立てた門をくぐると右側に「勿来関趾」の石碑がある。昭和2年に福島民友新聞社が建立した碑である。

その石碑の両側に小さな社がある。左側にあるのが関東の宮である。

右側にあるのが奥州の宮である。二体の宮は関東と奥州の国境の守り神として祀られていると説明されている。