半坪ビオトープの日記


勿来関は、平安時代の武将源義家の「吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな」の和歌をはじめ、紀貫之小野小町和泉式部西行法師など、多くの歌人が和歌に詠んだ有名な歌枕の地であるが、所在は確かめられていない。
江戸時代には水戸と磐城、相馬、仙台をつなぐ浜街道に沿っていくつかの宿場があり、この勿来町にも関田宿という宿場町が形成されていたため、江戸時代にこの地がなこそと見立てられ、飛鳥井雅宣、西山宗因、徳川光圀吉田松陰が訪れ、近代では斎藤茂吉、山口茂吉、徳富蘆花角川源義中里介山などが当地を文学作品に残している。
勿来関文学歴史館のすぐ裏に義家の歌碑が建っている。勿来植桜記念碑は、義家の遠孫田中智学が大正14年数百本の桜を植えて古跡を顕彰したことを、田中智学の娘達が感謝して建てたという。

松尾芭蕉の句碑には「風流のはしめやおくの田植うた」とある。白河の関を越えて聞いた田植歌は、みちのくに入って初めての風流なものですよ、と奥の細道須賀川にて詠んだ句である。その直前の白河の関越え奥州入りでは、白河の関を東国三関の一つというが、なこその関には触れていない。

こちらの歌碑は源信明のもので、「名こそ世になこその関は行きかふと人もとがめず名のみなりけり」とある。源信明(910-70)は、平安時代中期の官人・歌人三十六歌仙の一人にも選ばれている。

小さな社の義家神社があるが、いつ頃のものだろうか。ともかく源義家は、前九年の役後三年の役を含めて都合三回奥州入りしているが、いずれも桜の時期ではなく、歌に詠われたなこそも万葉がなでは「那古曽」で、ここの勿来かどうかは疑わしいという。

勿来関文学歴史館では、なこその関があくまでも平安時代以来歌枕の地であることを意識して、文学的な展示がされている。展示すべき出土品や関連資料がないのだから仕方がないと言えよう。なこその関を詠った125首から「春」「恋」「志」「道」の四つのテーマで選んだ歌の世界を紹介しているが、その中ではやはり恋の歌が興味深い。
見るめかるあまのゆききの湊ぢになこその関もわがすへなくに=小野小町
名こそとはたれかはいひしいはねども心にすふる関とこそみれ=和泉式部
勿来関文学歴史館は、勿来の関自体が史実として確認できないのに従って残念ながら中身がほとんどない歴史館であるが、出口の近くに源義家を描いた近代日本画の掛軸が4点展示されている。

歴史館の手前に吹風殿という体験学習施設がある。平安時代寝殿造りの建物を再現しているが、余り利用されていないように見受けられた。