半坪ビオトープの日記

大谷観音、大谷資料館


6月下旬に霧降高原のニッコウキスゲを見に出かけた。ところが雲行きが怪しかったので、初日は大谷観音や龍王峡の散策となった。宇都宮市大谷町にある天台宗の大谷寺は、山号が天開山、院号は千手院となっている。大谷寺の上に聳え立つ御止山(おとめやま)は、自然の大谷石からなる奇石群と赤松の織りなす風光明媚な景勝が「陸の松島」と賞賛され、平成18年に国の名勝に指定された。栃木県では日光の「華厳の滝」に続き、2番目の指定である。御止山の名の由来は、江戸時代、日光輪王寺の宮様の御用山で、秋になると松茸狩りをするため、一般人の立ち入りが禁止されて「おとめやま」と呼ばれたことによる。

境内から御止山に登るハイキングコースもあり、山頂まで15分で登ると、赤松に覆われた大谷の奇石群の見事な光景が眺められるという。観音堂の上にも大きく複雑にえぐられた大谷石の断崖が見える。

大谷寺は、大谷石凝灰岩層の洞窟内に堂宇を拝する日本屈指の洞窟寺院である。当時周辺には大谷岩陰遺跡があり、また弘仁元年(810)に空海が千手観音を刻んでこの寺を開いたとの伝承が残ることから、平安時代中期には周辺住民等の信仰の地となっていたと推定されている。平安末期には現在に残される主要な磨崖仏の造立がほぼ完了し、鎌倉時代初期には幕府によって坂東三十三箇所の一に定められたと考えられている。鎌倉時代には下野宇都宮氏の保護下で隆盛したが、豊臣秀吉により宇都宮氏が改易されると一時衰退した。江戸時代に入り、奥平忠昌が宇都宮城主に再封後の元和年間(1615~24)、慈眼大師天海の弟子だった伝海が藩主忠昌の正室(家康の長女・亀姫)の援助を受け堂宇を再建した。

大谷観音とも呼ばれる大谷寺の本尊は、磨崖仏の千手観音立像(3.89m)である。観音堂の奥にある大谷磨崖仏は、撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。千手観音像、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の4組10体の石心塑像が4区に分かれて彫出されている。造立当時は金箔と彩色が施されていたとされ、大分県臼杵磨崖仏と並んで高く評価され、国の特別史跡及び重文(彫刻)に指定されている。

洞窟の先に進むと宝物館となっていて、屈葬された縄文人の人骨が展示されている。洞窟内の深さ3mの地層から出土した、身長154cmの20代前後の男性で、縄文時代草創期(約1万1千年前)のものと判定されている。この洞窟は、約2千年前の弥生時代に至る約9千年間、住居跡であったことも判明し、大谷岩陰遺跡と呼ばれている。

本堂左手奥に緑に囲まれた池があり、その中央に弁財天が祀られ、その脇に白蛇が横たわっている。その昔、この池に毒蛇が棲んでいて、毒をまいて人々を困らせていた。弘法大師がこの話を聞き、毒蛇を退治した。その後、毒蛇は心を入れ替えて白蛇となり、弁財天に使えるようになったという伝説が残されている。

大谷寺の周辺には大谷石採石場跡が随所にあり、その一角に大谷平和観音と呼ばれる大きな磨崖仏が立っている。先の戦争の戦死者を追悼するため、昭和23年(1948)から6年かけて、総手彫りで彫られた像高26.93m、胴回り20mの観音菩薩像である。像の前は広場となっているほか、像脇の階段を上がって間近に見たり、像上から大谷の町を見晴らしたりできる。

大谷寺の後ろにそびえる御止山の裏側に、大谷資料館が建っている。大谷石とは、大谷町一帯で採掘される軽石凝灰岩の石材で、柔らかく加工しやすいことから、古くから外壁(石塀)や土蔵などの建材として使用されてきた。大谷石の分布は、東西8km、南北37kmにわたり、地下200~300mの深さまであるとされ、埋蔵量は10億トンと推定されている。

大谷石使用の最古の例として、今から約1500年前頃とされる県内の壬生町車塚古墳、小山市間々田千駄塚付近百塚で、凝灰岩(大谷石)の石棺が発掘されている。天平13年(795)国分寺建立の際の土台に使用、康平6年(1063)宇都宮城建築の際の使用例も知られている。
国内で古くから大規模採掘が続いたのは当地だけで、世界的にもあまり例がない。昔は露天掘りも行われたが、現在はほとんど地下採掘で地下数mから100mの深さでの坑内掘りである。
昭和40年代の最盛期には、採掘事業場は約120ヶ所、年間出荷量も約89万トンまで増加したが、その後年々減少し、平成21年には12ヶ所、約2万トンにまで減少している。
資料館の一階にある資料室には、江戸時代中頃から機械化になる昭和35年(1960)頃までの、採掘方法や採掘形態、搬出・輸送の移り変わりなどのほか、機械化後の採掘についても現物や写真などで展示されている。

資料館内の階段を下って行くと、地下採掘場跡が現れる。広さは2万平方メートル、深さは30mにも及び、「未知なる空間」とも呼ばれてきた。石肌には手彫り時代のツルハシの跡も残り、ずっしりと歴史の重さを感じさせ、地下の巨大建造物を思わせる景観は、この地ならではの圧巻である。坑内平均気温は8℃前後で涼しく、地下に降りる前に肩掛けを貸してくれる。

戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫としても利用された。現在では、コンサートや美術展などが開かれたり、演劇場、地下の教会、写真や映画のスタジオとして利用されるなど、イベントスペースとしても注目を集めている。