半坪ビオトープの日記

真野寺

 
賀茂神社の数km南の丘陵に真野大黒天として親しまれている真野寺がある。

門をくぐると右側に、昭和4年に再建された大黒天祈祷所がある。当初、現在地の東方約1kmにある高倉山山頂に建立されたので、山号を高倉山と名付け、真野谷にあったため真野寺となった。

門の手前の坂道を右に上ると、高倉山を背に、入母屋造銅板葺きの本堂が建っている。寺伝では、神亀2年(725)行基が開山し、建永元年(1206)に焼失したが、翌年、北条義時が私財を投じて七堂伽藍を再建し、覆面千手観音と大黒天立像を安置したという。元禄大地震関東大震災で大被害を被ったが再建し、現本堂は昭和35 年の再建である。

治承3年(1179)には源頼朝が源氏再興の祈願のために立ち寄り、後には里見義堯から領田を賜り、徳川幕府から御朱印43石を賜り、中興の祖、法印頼智が宝暦年間(1751~63)に再興した。虹梁の蟇股の彫刻が風変わりである。

本尊は、像高1.72mの木造千手観音立像で、行基の作と伝えられているが、平安時代後期の作と推定されている。楠の一木から彫り出され、顔には南北朝時代作の木造行道面(菩薩の面)がかけられ「覆面千手観音」と呼ばれている。秘仏として普段は厨子の中に安置されている。
観音像の従者として、南北朝時代建武2年(1335)仏師上総法橋により造立されたとされる、木造二十八部衆立像と風神・雷神像があり、いずれも県文化財であるが撮影禁止であった。

左には、関東に残る古像としては最大級といわれる木造大黒天立像があり、かすかに垣間見ることができた。像高1.41mで、寺伝によると貞観2年(860)慈覚大師が本山参籠中一刀三礼で彫ったとされるが、鎌倉時代の作と推定されている。

本堂欄間には龍の透し彫りが施されている。初代波の伊八の作と伝えられ、彩色が薄れているがたいへん迫力がある。

本堂右手の高台には、大きな鐘楼堂が建っている。茅葺きの屋根に銅板葺きの覆いがしてある。

鐘楼の手前右側には、真野七福神堂が建っている。

平成3年に七福神を安置した比較的新しい御堂である。