半坪ビオトープの日記


三囲神社から見番通りを北に少し行くと黄檗宗の牛頭山弘福寺がある。かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島殿の城址に寺地を受け、ここに移し現在に至っていると伝えている。

開山は鉄牛道機禅師で、開基は小田原城稲葉正則である。鉄牛は岩見の出身で、京都宇治万福寺の創建にも尽力し、たいへん行動力のあった禅僧と伝えられている。
現在の本尊釈迦如来像は、後世の松雲禅師の作といわれている。伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建された。黄檗宗特有の唐風の特徴をもち、本堂両翼にある円窓、堂前の月台、柱に架かる扁額など、他の寺院ではあまり見られないものである。

黄檗宗の関係から鳥取藩池田家、津和野藩亀井家ゆかりの寺院として多くの関係者の菩提寺となっている。森鴎外は少年時代この地域で過ごしてもいるが、津和野藩主の菩提寺の関係から没後ここに葬られた。だが震災後の隅田公園造成のため、三鷹禅林寺へ改葬された。
なお隅田川七福神のうち、禅宗にちなみ布袋尊が安置されている。布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。

黄檗宗禅宗の中でも中国色の強い宗派と知られ、本堂前の大きな石碑を背中に乗せる亀趺(きふ)も中国式である。8代鳥取藩主池田斉稷の墓碑を乗せている。
亀趺は、須弥山や蓬莱山を背負う不動の象徴で、もともと中国の貴族の風習だったのが、江戸時代に日本にも取り入れられるようになったものであり、功績や功徳などを刻んだ石碑を大亀の背に乗せる台のことである。

こちらは風邪除けの信仰を集める翁媼尊である。
咳の爺婆尊ともいうこの石像は、風外禅師(名は慧薫、寛永年間の人)が真鶴山中の洞穴にて求道していた際、父母に孝養を尽くせぬをいたみ、岩に刻んだ父母の像である。

当山開基の小田原城稲葉正則がその石像の温容と禅師の至情に感じ城内に供養していたが、移封のため小田原を去るにあたり当寺に預けて祀らせたという。
口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折には煎り豆と番茶を供えて供養するという風習が伝わっている。