半坪ビオトープの日記


社殿の裏手には珍しい「三柱鳥居」がある。「三角石鳥居、三井邸より移す。原形は京都太秦、木島神社にある」と書かれているように、蚕の社とも呼ばれる木嶋(このしま)神社にある石造三柱鳥居が最も有名である。現在のものは天保2年(1831)に再建されたものだが、北斎漫画の「三才鳥居」に描かれたものは木造となっている。珍しい三柱鳥居だが、木嶋神社・三囲神社のほかにもいくつか知られているし、そのいわれについても太秦の豪族、機織り出身の秦氏や関連の深い白山神社との関係もいろいろと取りざたされている。
三囲神社の三柱鳥居では、鳥居に囲まれるように井戸が設けられている。

三柱鳥居の向かいには、三本足の柱を持つ屋根のついた手水鉢が建っている。屋根には三井家の家紋があるという。

境内には実に多くの石碑が建っているが、この石碑は包丁塚である。向島という料亭の多い土地柄か、牛島神社と同じくここでも大きな石碑が建っていた。

こちらの石碑は、数拳(かずけん)の名手、野崎車応の追悼碑である。
太田南畝の漢詩を冒頭に置き、「ひらく手の五ゥは勝なり梅のはな」と続く。五ゥの’ゥ’は五の読みを示すふり仮名で、「うっ(打つ)」の意である。文化9年(1812)の建立である。

こちらは、朱楽菅江(あけらかんこう)の辞世句の石碑である。
「執着の心や娑婆に残るなむ よしのの桜さらしなの月」朱楽菅江
天明・寛政の頃の狂歌作者で、石碑建立の年代は不詳だが、文化文政の頃にはすでに有名な石碑だったという。

こちらは其角惜春の句碑で、「山吹も柳の糸のはらミかな」晋其角
芭蕉門下の俳諧師榎本其角は、後に宝井生を名乗るが、晋子の号も愛用した。この石碑は天保6年(1835)の建立である。

ほかにも俳人其角の雨乞いの碑や、江戸初期の連歌師、宗因白露の句碑などたくさんあったが、余り多かったので撮りこぼしがいくつもあった。由来の分からないものも多い。