半坪ビオトープの日記

薬師堂、淡島堂


影向堂の斜向いに、薬師堂が建っている。慶安2年(1649)徳川家光の再建による3間四方のこのお堂は、観音堂の北西、堀の橋のたもとに建てられたので、家光自身が「橋本薬師堂」と名付けた。薬師如来のほか、薬師の十二の大願に応じて現れた分身「十二神将」、冥界で死者の罪業を裁く十王を祀る。平成6年に現在地に移築し改修工事が施された。

近くに一言不動が建っている。願い事一つに限って祈願すると、その願いが叶うとされ、古来より霊験が著しいといわれる。享保10年(1725)に造立された。

薬師堂の西に、淡島堂が建っている。元禄年間(1688-1704)に紀州加太の淡島明神を勧請して建立された。現在の淡島堂は、戦後の仮本堂だった旧影向堂を、平成6年に移築・改修したもので、本尊は阿弥陀如来淡島明神のほか、虚空蔵菩薩、取子(とりこ)地蔵菩薩を祀る。
淡島堂に向かって左手前に、胎内くぐりの石灯籠がある。参拝の子供がこの灯籠の下をくぐると、虫封じや疱瘡除けになると、江戸時代から伝えられている。

淡島堂の南の一角には多くの石碑や銅像があり、新奥山という。左の石碑は、福地桜痴居士紀功の碑である。文久2年(1862)幕府の使節に従い英仏二国に赴き、明治になって再度渡欧した。東京日々新聞社長を務め、小説や演劇の功績が顕著とされる。右の石碑は、滝沢世古の碑である。伊予国出身の書家として名高く、天保5年(1834)没。弘化2年(1845)に門人が建てた。

こちらの石碑は、三匠の句碑という。文化6年(1809)に建立され、江戸時代前期の俳人、宗因・芭蕉・其角の句が刻まれている。「ながむとて花にもいたし頸農骨」宗因、「花の雲鐘は上野か浅草か」芭蕉、「ゆく水やなににとどまる乃里の味」其角。

この銅像は、瓜生岩子銅像である。幕末から明治にかけて社会実業家として知られ、福島・東京で社会福祉にも貢献した。救護所・縫製所等を各所に作り、慈善事業に取り組み、「仏の岩子」と慕われたという。

薬師堂の東南の一角にも地蔵尊などがたくさん集まっている。左は先ほど見かけた銭塚弁財天である。中央は、子宝にご利益があるという、めぐみ地蔵尊である。右の恵比寿大黒天は、金運にご利益があるという。

ほかにも子育て地蔵尊(左)、高徳地蔵尊(中)、出世地蔵尊(右)と並んでいる。

浅草寺の境内のあちこちから、東京スカイツリーの姿が眺められる。浅草とセットで最近の観光の目玉となっている。これで見どころの多い浅草寺の初詣は終わった。