半坪ビオトープの日記


前にも記したように三囲(みめぐり)神社は、昔「田中稲荷」と呼ばれていたという。近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際、この荒れた祠を再建したとき、土中より白狐にまたがる老翁の像を得、そのとき白狐が現れ神像を三回廻って去ったというが、それは鎌倉時代の文和年間(1353~55)という。するとかなり古くから田中稲荷が存在していた訳で、多分、稲作が定着し村ができた頃からあったものと思われる。どこの村にもあるお稲荷様と同じであろう。
社殿の右手奥の一角に赤い鳥居がいくつも重なる光景がある。祠がいくつもあってどれが本尊か分からず狐につままれたような感じがしてくる。

神社の裏手にこのように赤い鳥居と稲荷神社があるのはよく見かけるが、りっぱな社殿のある神社とは一線を画して、ひたすら小さな祠に土俗の信仰を寄せて足を運ぶ村人達の姿を思い浮かべると、日本の神社信仰の原点を見るような気がする。

石の明神鳥居の扁額には「白狐祠」と書かれている。
どの祠が白狐祠なのか、すべてが白狐祠なのかも残念ながら分からなかった。

白狐祠の中程に老翁老嫗の石像がある。元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいた。願い事のある人が老婆に頼むと老婆は田んぼに向かって狐を呼ぶ。するとどこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまう。不思議なことに他の人が呼んでも決して現れなかったそうだ。俳人其角はその有様を「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいる。老婆の没後の元禄14年(1701)に、その徳を慕って石像が建てられたという。

奥まった塀際にいかにも稲荷神社らしい社があった。狐が守っている社の中に小さな白狐や赤い鳥居が供えられていた。

こちらにも何匹もの狐に守られた社がある。やはりお稲荷様も三つ揃えていて三囲(みめぐり)するようになっているのだろう。