半坪ビオトープの日記

太鼓谷稲成神社、元宮


太鼓谷稲成神社拝殿の向かい、一段高いところに元宮が祀られている。

室町中期(15世紀中頃)津和野城主吉見氏により、元宮の創始となる熊野権現社を津和野の乙女山に建立し、のち吉見正頼(毛利元就重臣)の制定した吉見七社の一社に列し、特に篤い崇敬を受けた。安永2年(1773)京都の伏見稲荷狼を太鼓谷の峰に勧請し、稲成神社を建立した。

慶応3年(1867)熊野権現社を稲成神社に遷し、相殿として奉斎、以来熊野神社と称した。大正12年(1923)現社殿を建立し、昭和2年(1927)には稲成神社と改称した。昭和44年、新社殿建立につき、当社殿を「元宮」と改め、熊野・稲荷両信仰の神域として現在に至る。
拝殿奥の神饌の両脇に随身が守っている。随身門の中でなく拝殿内で見かけるのはたいへん珍しい。

元宮の本殿は拝殿の奥に続いて建っている。

元宮の右脇を進んで本殿の後ろに回りこむと、太鼓谷命婦社が祀られている。命婦社とは、稲荷大神の眷属=神令使である白狐の霊を祀っている神社である。祭神は命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)と称する。

元々、命婦とは古くは五位以上に叙せられた女官及び五位以上の官人の妻をいい、前者を内命婦、後者を外命婦と称する。古来より、命婦社での祈りは京都の伏見稲荷大社に通じるとの伝説が残り崇敬されている。通称「おじょう」とも呼ばれ、脇にはいつもローソクの火が絶えず、神妙な風格を漂わせている。

元宮へ上る石段の右脇に朱色と金色が眩しい神門が建っている。

神門をくぐって下を眺めると、手水舎の先に朱色の鳥居が立て続きに並んでいる。これが弥栄神社脇から約1000本の鳥居のトンネルをくぐって登ってくる表参道である。

元に戻って広い境内から津和野の町を眺め渡す。津和野川の向こうの青野山の南の裾には日本三大鳥居といわれる大きな鳥居が小さく見える。その鳥居の右下の河原近くに、森鴎外の旧居がある。さらに右手の上流方面(南)に行くと山口県に入る。殿町通りなどのメインストリートは左手(北)の下流にある。