半坪ビオトープの日記

殿町通り、カトリック教会


太鼓谷稲成神社の参道入り口にあたる大橋で旧国道から右に分かれた、殿町通りから本町通りへ続く石畳の道が津和野のメインストリートである。右手には藩校養老館や公民館などが並び、海鼠塀に沿って流れる掘割がある。

殿町とは、慶長6年(1601)津和野入りした坂崎出羽守によって城下町が整備されて以来、今日まで城下の中心部としてその名を留めている。通りの西側(左手)には、亀井氏11代に亘り家老職を務め、藩に貢献した多胡・大岡・牧の三家老屋敷があった。現在は、そのうち多胡家老門と大岡家老門が残っている。この門は大岡家老門である。

大岡家老門をくぐって中に入ると、津和野町役場津和野庁舎と町の教育委員会があり、ここで観光パンフをもらうことができた。

石畳に沿った掘割には、ゆったりと錦鯉が泳いでいる。初夏には色とりどりの花菖蒲が咲き乱れるという。

通りの左側には海鼠塀の美しい蔵が建っていて、その続きには土産物屋が並んでいる。

殿町通りを進んでいくと通りの右手にカトリック教会が見えてくる。一際異彩を放つこの教会は、ゴチック様式の石造建築で、荘厳な雰囲気を醸し出している。

内部の礼拝堂は珍しく畳敷きで、和風の造りになっている。

教会の右側に乙女峠展示室がある。慶応元年(1865)長崎浦上の4000人以上の隠れ切支丹のうち少数が今の大浦天主堂に入り、徳川幕府250年以上の迫害をくぐり抜け発見されたことに全世界が驚嘆した。しかしキリシタンの喜びもつかの間「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧が始まった。

明治政府は神道の国教化を進めるため、浦上のキリスト教信者約3400人を、鹿児島から名古屋の西日本各地20カ所に流罪として送り、改宗を迫った。その中に萩・津和野も含まれていた。津和野藩は明治2年(1869)までに153人を預かり、今の乙女峠にあった光琳寺に収容した。津和野藩が選ばれたのは、津和野藩が神道研究で隆盛を誇り、当主亀井茲監が神道による教導教化に相当自信を抱いていたからであった。藩出身の国学者福羽美靜の指導で改宗を迫ったが改心できず、その後拷問によって改宗を強いた。厳寒の冬の雪の中の三尺牢に裸で押し込められるなどの拷問により、明治6年に禁制が解かれるまでの5年間に36名が亡くなった。改宗者は54名、信仰を守ったものは63名であった。

明治24年(1891)ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷・蕪坂に葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めて改葬し、「至福の碑」を建てた。昭和26年(1951)ドイツから日本に帰化したパウロ・ネーベル神父(岡崎祐次郎)は、乙女峠に記念聖堂を建て、殉教地を整備した。彼が始めた乙女峠まつりは、全国から集まる多くの巡礼者によって、乙女峠聖母マリアと殉教者を讃え続けている。

乙女峠は津和野の駅の西の山間にあり、明治初年までそこに光琳寺という寺があった。そこに長崎浦上のカトリック信者153人が改宗させられるために収容されたのであった。