半坪ビオトープの日記

永明寺、本堂、庭園


永明寺は応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘が月因性初を開山として創建した寺で、津和野を領した吉見・坂崎・亀井3氏の菩提寺であり、島根県最古の別格大禅院である。唐山16世曹源滴水禅師は永明寺中興の祖といわれる。元禄11年(1698)に焼失した諸堂を復興して大僧堂を設け、徳川時代における曹洞宗二大叢林の一つ、関西唯一の弘法道場として全国にその名声を謳われた。さらに石州一円に70数ヶ寺の末寺を擁し、石州本山とも呼ばれた。享保14年(1729)再び大火に見舞われ僧堂は姿を消した。

本堂玄関軒の彫刻は、安永8年亀井家臣植木源十郎藤原直宣の作である。

幕末の混乱期、長州藩にも幕府にも干渉しないという中立の密約を交わした津和野藩。進軍しないことに業を煮やした幕府が長州征伐の督促者として派遣した軍目付の長谷川久三郎が駐留したのが永明寺の本堂である。

安永8年(1779)に再建された単層茅葺きの現在の本堂は、永明寺最古の建物で、仮普請ともいわれるが畳の数は400枚を越える。本尊として釈迦牟尼仏が安置されている。

本堂祭壇の向かって左には、代々の住職の姿だろうか、9体の坐像が安置されている。

本堂右手には薬師三尊仏画が掲げられている。この仏画は津和野藩15代藩主・亀井茲建が描き、永明寺に寄進したものである。中央が薬師如来、右が日光菩薩、左が月光菩薩である。

書院の裏手に本格的な禅庭園がある。中央に池を配した池泉回遊式の庭園で、石見地方屈指の名園といわれる。借景とする裏山と植栽が調和し、庭園に広がりを感じさせている。秋の紅葉時はとりわけ美しいという。

本堂左手の寺宝館の左を回り込むと、坂崎出羽守の墓所に上る道がある。満開の馬酔木の大木の横には何やら小さな神社が祀られている。

石段を上がると、坂崎出羽守直盛の墓がある。坂崎出羽守(初名、宇喜多詮家)は、慶長6年(1601)関ヶ原の戦いの功により石州津和野藩3万石の藩主となった。津和野城の大改築、城下町の設営、新田開発、和紙増産、鯉の増殖等の治績で現在の津和野の礎を築いた名君であったが、在位16年で亡くなった。元和元年(1615)大坂夏の陣において大坂城落城の際に、出羽守は徳川家康の依頼を受け、家康の孫娘で豊臣秀頼正室である千姫を燃え盛る大坂城から救出した。しかし、顔に傷を負いながら救出した出羽守を千姫は拒絶した。千姫は父秀忠の命により桑名藩主・本多忠政の嫡男・忠刻と結婚が決まった。元和2年9月、津和野藩主・坂崎出羽守が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され(自害との説もあり)、坂崎氏は断絶した。いわゆる千姫事件である。翌年、津和野には亀井政矩が因幡鹿野城から入封し初代藩主となった。墓の右側面には坂井出羽守と刻まれているが、坂井としたのは徳川家を憚って変名したといわれている。

坂崎出羽守の墓の右手奥に、永明寺の歴代住職の墓碑群がある。この中左側に、尼子国久の3男(数久)である永明寺7世・天粧寿心大和尚の墓石もある。