半坪ビオトープの日記

津和野、永明寺、鴎外の墓


3月下旬に津和野、萩、秋吉台を巡ってきた。最初に訪れたのは津和野。山陰の小京都とも呼ばれる津和野は、島根県の最西端、中国山地の山あいに広がる小さな城下町である。
ちょうど昼食時になったので、ふる里という郷土料理の店に入った。

郷土料理といっても、名物のうずめ飯の他にはこれといったものがないので、当然のごとくうずめ定食を頼む。島根県西部(石見地方)の山間部で食べられている郷土料理で、起源は江戸時代中期と考えられている。だし汁がかかった雑炊風のご飯に、わさびと刻み海苔が乗せられ、その中にいろいろなものが埋められている。ほかにコンニャクの刺身、ゼンマイなどの山菜などの小鉢がつく。

うずめ飯の中には椎茸やかまぼこ、高野豆腐などを賽の目にしたもの、大葉や細ネギなどの薬味が入っていて、沢庵の細切りなどを加えて混ぜて食べる。深川飯、さよりめし、忠七飯、かやく飯と並んで「日本五大銘飯」のひとつであり、他に類を見ない独特な郷土料理として味わい深くいただいた。

東に青野山(907m)、西に津和野城(三本松城)跡のある城山が聳える盆地を流れる津和野川に沿って、津和野の町は南北に細長く広がっている。北に位置する津和野駅の南の踏切を西に山に向かうと、森鴎外の墓で有名な永明寺(ようめいじ)がある。苔むした参道の石段を進むと、津和野城の総門を移したという山門が建っている。山門にかかる「覚皇山」の扁額は、明の渡来僧で水戸光圀に迎えられた心越禅師の書である。

山門の内側右手奥に古い石碑が見える。歌を詠み句を作り津和野を深く愛した、人形作家・河津匂子(かおるこ)の句碑である。本堂に河津匂子の作品・夜泣き人形があったのだが撮り損ねてしまった。ドイツに持って行ったら日本に帰りたいと泣いたというエピソードがある。
紙人形 紙の椿を持たせけり 匂子

境内に入るとすぐ左側の石垣の上に、苔むした墓石がたくさん立ち並んでいる。

石垣の一番左手に覚皇山永明寺の由来の説明板があり、その上に森鴎外墓所の標識がある。

一番右手から石垣の上に上って左に進むと、森林太郎墓と刻まれた森鴎外の墓石が、森家一族を代表するように正面に据えられている。森家は代々津和野藩主亀井家の典医で、林太郎は生まれてから11歳で上京するまで津和野に住んでいた。

「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言通り、中村不折の筆による本名のみ彫られている。中村不折は洋画家・書家としても活躍し、漱石の「吾輩は猫である」の挿絵を描いた。鴎外の墓は東京三鷹禅林寺にもあり、そこの墓石にも森林太郎と刻まれている。すぐ右に父・森静男(静康)の墓がある。その右は母・峰の墓であろう。