半坪ビオトープの日記


弘福寺のすぐ北に天台宗の宝樹山遍照院長命寺がある。創建年代は不詳だが、古くは宝寿山常泉寺と号していたという。寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りを行った際、急に病を催し、ここで休憩をとり、境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、長命水と名付けられるとともに、長命寺と呼ばれるようになったという。
長命寺隅田川七福神のうち弁財天を祀るが、この長命水に由来する。弁財天はもともと天竺の水の神であることによる。仏教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。

長命寺は別名「風流寺」といわれるほど数十もの石碑や塚などがある。
この石碑は芭蕉雪見の句碑で、「いざさらは 雪見にころふ 所まで」と刻まれている。
芭蕉の門人祇空はこの地に庵をつくり、その後祇空の門人自在庵祇徳は、庵室に芭蕉像を安置し芭蕉堂とした。そして三世自在庵祇徳が、安政3年(1858)に庵を再興し、この句碑を建立した。

ここにもいくつかの碑が並んでいる。左から「鼠取養犬 六助塚」「孕山堂江雨燈影の碑」「江戸桜の碑」である。ねずみ取りの上手な犬の墓も大きいが、なかでも「孕山堂江雨燈影の碑」では、扇子を持って小唄でも唱っているようなシルエットが粋である。「江戸桜の碑」は9代目市川団十郎が演じた「助六由縁江戸桜」を記念したものという。

この「元三大師」の隣にある「我興乃蘇鉄の碑」は、残念ながら由来が分からない。

枝垂れ桜の根元にある木の実ナナの石碑には、「風のように踊り 花のように恋し 水のように流れる」とある。

左の石碑は「初代鶴澤清六之塚」である。鶴澤清六文楽義太夫節三味線方の名跡で、初代は大坂生まれだが弘化3年(1846)に江戸に来て、初代竹本大隅太夫の三味線方をつとめ名声を得た。
右の石碑は「成島柳北の碑」である。成島柳北は、幕末明治の随筆家であり実業家である。将軍家茂に経書を講じ、外国奉行、会計副総裁を勤めた後、幕府崩壊とともに職を退いた。
その後、朝野新聞の社長に就き時事を風刺したり、明治安田生命の前身の共済五百名社の創立に協力したりした。