半坪ビオトープの日記

東光寺、大雄宝殿


伊藤博文旧宅から東に向かい、松陰の叔父で松下村塾創始者である玉木文之進旧宅前をなおも進むと、毛利家の菩提寺として知られる東光寺に突き当たる。仙台藩伊達家の大年寺、鳥取藩池田家の興禅寺と並んで黄檗宗三大叢林のひとつ。黄檗宗の護国山東光寺は、萩藩3代藩主・毛利吉就により元禄4年(1691)に建立された。ベンガラが塗られた朱色の総門(山門)は、三間二戸の八脚門、一重切妻造段違本瓦葺きで、写真では見えないが棟の端には鯱(しゃち)の代わりに摩伽羅を飾り、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗宗の様式である。総門右横の石柱は禁牌石といって「葷酒山門に入るを許さず」と読み、「葷(ニンニクやニラなど)を食べたり、酒に酔った者の入山を禁ずる」ことを意味する。

東光寺開山である萩出身の慧極道明禅師は、当寺が創建された翌年の元禄5年に晋山したが、この総門は元禄6年(1693)の建立であり、国の重文に指定されている。正面には慧極筆の「護国山」の額が掲げられている。

総門を入るとすぐ左に大きな宝篋印塔が建っている。

参道正面には大きな三門が建っている。10代藩主毛利斉熙が寄進したもので、文化9年(1812)の建立である。桁行11.6m、梁間6.7mの三間三戸の二階二重門で、地方寺院としては有数の規模を誇り、国の重文に指定されている。入母屋造本瓦葺き、棟の両端は鯱付き鬼瓦備え、中央は露盤宝珠備えで、ケヤキの素木造りとなっている。左右に山廊があり、そこから二階への階段が通じ、二階には周囲に通し縁があって、内部には十六羅漢等が安置されている。全体の構造形式は純粋な唐様で、組物は上層軒内唐様二手先詰組である。

三門を潜る時に見える通路上の「解脱門」の額は、即非禅師の筆である。

潜り終えた内側から見える三門の「布金祇園」の額は、表側から見た上層の扁額「最勝閣」と同様、当山15世大愚衍操禅師による。

3月下旬なので境内にあるソメイヨシノも陽光桜も、すっかり満開となっている。三門脇のこの陽光桜は、愛媛県の高岡正明氏により「天城吉野」と「台湾緋桜」の交配で作られた病気に強い桜で、ピンク色の花びらが大きくて鮮やかである。

三門を潜ると、昔は天王殿や座禅堂など多くの伽藍が建ち並んでいたという。左手に残っているのは鐘楼である。この鐘楼は、黄檗宗特有の一重裳階付きの素木造二層式の建物で、ヒバと松が使われている。屋根は入母屋造で上層部は本瓦葺き、下層部は桟瓦葺きとなっており、上層には刎高欄を据えた縁が周囲に廻らされている。上層内部には、4代藩主毛利吉広が寄進した大鐘があり、元禄7年(1694)の建立の銘があり、国の重文に指定されている。ほかに大太鼓もあり鼓楼も兼ねている。

正面には大きな大雄宝殿(本堂)がどっしりと構えている。元禄11年(1698)に建立された大雄宝殿は、一重裳階付き入母屋造本瓦葺きで、用材はクサマキである。組物は三ツ斗出組構えで、前面一間通りは吹放しになっていて、左右と背面の入側は化粧屋根裏、中央は格子天井組など複雑な唐様式の仏殿で、国の重文に指定されている。中国風に障子の桟が日本と逆に外側にある。また屋根の中央にあげた火焔付き二重宝珠が黄檗風で、正面中央の半扉には桃(中国における魔除けの果物)の画が彫られていて桃戸という。
大雄宝殿前には月台という広場が設けられ、その中央の大きな石を梵壇石といい、戒律を破った僧が懺悔のため坐らされたという。

堂内は土間叩仕上げで、中国明時代の法要の法式を継承する黄檗宗の読経は、現在でも立ったままで行う。須弥壇上には本尊として、長寿院(開基毛利吉就夫人)の寄付にかかる釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者の三尊仏を安置している。柱は全て方柱で、内部は数多くの聯や額によって荘厳されている。

大雄宝殿の右側には、寛政4年(1792)建立の大方丈が建っている。方丈の間取りは通常「六間取り」が基本だが、この方丈は忽室(禅問答の部屋)・寝室・茶室が集約され、さらに奥には毛利家の各藩主が墓参りに来た際に休まれる座敷(書院)が連なっている。玄関は二カ所あり、向かって左手は殿様用の玄関であり、向唐破風造り。額は黄檗宗開祖隠元禅師の「松関」の額で、石畳には大きな切り出し石が敷き詰められている。

こちらは家臣用の玄関で、むくり屋根の切妻造り。当山12世石車衍輗(えんげい)禅師の「大醫王」の額、敷石には自然石が使われている。