半坪ビオトープの日記

岩内町郷土館


積丹半島の南西部の付け根にある岩内町は、宝暦元年(1751)に和人が通年定住したという記録があり、北海道では歴史の古い町である。明治・大正・昭和にかけて漁業・商業で栄えた町でもあり、日本最初・北海道最初の事業もいくつかあって、岩内と関係深い文学者関連など、岩内町郷土館では幅広い資料を展示している。

郷土館の前庭左手には、鰊船(保津船・ほっつせん)が展示されている。昭和15年、当時の島野村(昭和30年に岩内町と合併)の船大工・高野五郎治によって建造され、昭和26年の最後まで実際に鰊漁で使われていたニシン枠船で、長さは10m、幅は2mである。大正から昭和初期にかけて、積丹場所は北海道の水揚げの1/3を実現した最大場所で、その中心が岩内だった。

岩内大火は、昭和29年(1954)の洞爺丸台風(15号)襲来時の出火で、市街の8割・3298戸が焼失した。復興住宅建設工事の際、高台の東山土中から石斧などの石器や円筒土器類が大量に出土した。約7,000〜6,000年前の縄文前期円筒下層式土器、および約5,000〜4,000年前の縄文中期円筒上層式土器が地層別に出土した。この大規模な東山遺跡は、東北地方に中心をもつ円筒土器文化が日本海を北上する際の拠点になった遺跡で、住居跡や貯蔵穴を転用した墓なども確認されている。また、新潟県糸魚川原産とされるヒスイも出土している。右にある大きな鯨の骨は街中から見つかった。今の街中は古代には海中で、人々は東山の高台に暮らしていたことになる。

岩内町の開基は、宝暦元年(1751)に岩内場所請負制度により近江商人が岩内・古宇場所の請負人になったこととされる。岩内の基礎を作ったといわれるのが場所請負人・佐藤仁左衛門父子だが、この度、3代目仁左衛門安政3年(1856)に岩内ー余市間の稲穂峠から岩内までの山道開削を行い、幕府から感状をもらった記念に作った由来の銘が入った壺が見つかって、郷土館に寄贈されたという。
同年、松浦武四郎は、アイヌの人たち(スイド、サケノカロ)、和人(庄内塩越村常吉松前富治郎)の4名を伴い、磯谷より雷電の難所を越えて岩内の地に立った。幕府の蝦夷調査係としてこの後の3度を含めて都合6度の蝦夷地調査を行った松浦武四郎は、アイヌ民族を友とした人権感覚豊かな人で、「北海道の名付け親」としても知られている。

郷土館前には「にしん街道」の標柱が立っているが、江戸時代から明治末期まで、岩内の主たる海産物はニシンであり、「ニシン漁」の好況で岩内は大いに繁栄した。ニシン場の親方の生活も豪奢となり、総刺繍の屏風や薩摩の陶器など全国の一級品を手に入れるほどの莫大な財産を築いた。

ニシン場の親方衆は、莫大な財産を元手に呉服屋・農場経営など様々な事業を始め、町民のために橋や道路も作った。

岩内には、日本最初・北海道最初の事柄がたくさんある。安政3年(1856)に北海道最初の炭鉱が発見され、アスパラガスの栽培は下田喜久三農学博士が大正11年(1922)に日本最初に成功し、明治39年(1906)には北海道最初の水力発電が開始され、明治40年には日本最初の自費(町費)による港築港事業が開始された。また、明治4年(1871)には開拓使のお雇い外国人トーマス・アンチセルが岩内町郊外で野生ホップを発見し、これが現在のサッポロビールにつながっている。

館内には国産最古のリードオルガンも展示されている。明治38年(1905)横浜・西川オルガン製作で、今でも自由に演奏できる。

こちらは赤子を抱いた縦1.68mの子育て地蔵尊(背負い仏)で、永年岩内町成田山の祈念仏だったが、引払いの際、同宗本弘寺に委ねられた。来歴は不明だが江戸時代の作と考えられ、隠れキリシタンが全国を背負い巡った聖母マリア観音像という説もあるそうだ。

岩内には文学関係でも多くの文人が訪れているが、中でも特に関係の深い作家として、夏目漱石有島武郎長田幹彦水上勉の資料が展示されている。夏目漱石は22年間、岩内に戸籍を置いていて、その住居跡には石碑が立っている。有島武郎大正12年(1922)に岩内を訪れている。「生まれ出ずる悩み」のモデルだった漁夫画家については、木田金次郎美術館が建てられている。

水上勉昭和36年(1961)に岩内町を訪れ、名作「飢餓海峡」が生まれることになる。昭和38年には映画の撮影が岩内町で行われた。「飢餓海峡」の誕生のきっかけになった昭和29年(1954)の岩内大火の資料も展示されている。