半坪ビオトープの日記

鰊御殿、雷電海岸


大沼公園から渡島半島道央自動車道で北上し、長万部から渡島半島を縦断し日本海側の寿都町に出る。寿都湾に注ぐ朱太川周辺では縄文期の土器やアイヌの人々の遺跡も発見され、古くから寿都には人が住んでいたと考えられている。寿都町の開基は、和人が集落を形成し始めた寛文9年(1669)とされるが、当時からニシンやサケ・マス・アワビなどの海産物とアイヌの人々の求める日用品(刀、鍋、酒など)との交易が盛んだった。その後、戦前に隆盛を極めたニシン漁で財を成した網元たちが競って造った木造建築が幾つか現存している。そうした網元の居宅兼漁業施設(番屋)が鰊御殿と俗称されるが、定義は未確定である。寿都町歌棄にある、御宿・鰊御殿と称する橋本家は商家であって厳密には鰊御殿ではない。この建物は、網元や漁師に品物や金を貸し、代金を数の子、身欠鰊などで返済してもらい、それを売って財を成した仕込屋の豪勢な建物である。床下には防湿のため600表の木炭を敷き詰め、釘を一本も使っていないという。現在は旅館として営業している。

御宿・鰊御殿の向かいの海岸には、小さな恵比寿神社とその鳥居が建っているのが見えるが、その右手には大きな石碑が建っている。

この石碑は追分記念碑という。かつて鰊漁が華やかであった開拓の初期、積丹半島神威岬から女人の渡航ができなかった。「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」。北へ出漁した男に対する切々たる慕情を歌った有名な江差追分の一節であり、この歌にゆかりの深い風光明媚な歌棄海岸に、昭和7年(1932)に建てられた。

御宿・鰊御殿の少し先に漁場建築・角十佐藤家が建っている。義経の家臣・佐藤継信の末裔と称する初代佐藤定右衛門は、嘉永5年(1852)に歌棄・磯谷両場所請負人を勤め、維新後は駅逓取扱人を命ぜられた同地方随一の名家である。建築年代は、佐藤家の口伝では明治3年(1870)とされるが、外形の洋風建築様式から明治10年代と推定されている。外観は和洋折衷様式で、外壁は洋風の下見板張りを基調としている。二階正面には櫛形の飾りを付けた上下スライドのガラス窓を設け、一階正面には縦の組子を少し狭めたたてしげ格子と下見板張りの玄関を配置している。屋根には、洋風の六角窓の煙出しと、和風の煙出しとが設けられている。いわゆる鰊御殿とは違って漁夫の宿泊部がないのが特徴だが、保存状態が良く、規模・建築様式・構造などの点で現存する漁場建築の中で代表的な遺構とされる。

佐藤家の前の海岸から海岸沿いに北西を眺めると、「だし風」と呼ばれる強風を利用した風力発電の風車が幾つか認められる。その右手に寿都町の市街地がある。

さらに右手正面には、寿都湾を取り囲むように突き出た弁慶岬が見える。奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡りこの地に滞在し、弁慶はこの岬の先端に立って同志の到着を待っていた。その姿を見ていたアイヌたちは、この岬をいつしか弁慶岬と呼ぶようになったという伝説が残されていて、その姿を再現した銅像が建てられているという。

寿都町からさらに海岸沿いに北上し、岩内町に入るとすぐに雷電海岸があり、そこに有島武郎文学碑が建っている。積丹半島の南西部の付け根にある岩内町は多くの文学者との縁がある。なかでも大正7年の有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」は、岩内で苦悩しながら創作活動を続ける漁夫画家・木田金次郎をモデルにしている。碑文は、「生まれ出づる悩み  物すさまじい朝焼けだ。過って海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現はしてゐる。その肩のやうな雷電岬の絶嶺を撫でたり敲いたりして叢立ち急ぐ嵐雲は、炉に投げ入れられた紫のやうな光に燃えて、山懐ろの雪までも透明な藤色に染めてしまふ。それにしても 明け方のこの暖かい光の色に比べて、何んと云う寒い空の風だ。長い夜の為めに冷え切った地球は 今その一番冷たい呼吸を呼吸してゐるのだ。」とある。

有島武郎文学碑のある雷電海岸の左の先に雷電岬が突き出していて、その先端に刀掛岩が見える。その昔、義経と弁慶がこの地を訪れ、雷電岬で休息した際、あるいは釣りをする際に、弁慶は自分の太刀を置くために岩を捻って作ったのがこの「弁慶の刀掛岩」という。ここから見る刀掛岩に沈む夕陽は、絶景の観光スポットといわれる。

雷電海岸は大小の石が集まった安山岩質の岩石海岸で、雷電山(1212m)の西北麓が日本海に没する断崖絶壁を成し、かつては交通の難所として知られていた。文学碑の右手には海に突き出た奇岩があり、その彼方には積丹半島が見える。近辺には雷電温泉が湧出しているが、残念ながら今は1件しか宿がない。

雷電海岸から10分ほど進むと、ごろた石の島野海岸となる。右手前方の積丹半島には、白い建物が集まっている泊原発が認められる。

その左手には積丹半島の山並みが見える。

雪の残る山々は、左の山が積丹半島の最高峰・余別岳(1298m)であり、右の山が積丹半島で唯一登山道が整備されているという積丹岳(1255m)であろう。