半坪ビオトープの日記

油井の池、五箇創生館、郷土館

油井の池

カタクリの里から西に進むと那久の集落に出る。那久川の上流には壇鏡神社と光山寺跡という史跡があるのだが、残念ながら途中の道路が崩壊していて通行禁止だった。光山寺の創建は宝亀年間(770-780)といわれ、平安時代に遠流となった小野篁が過ごした場所といわれる。小野篁は承和元年(834)遣唐副使となるものの、渡航しなかったことなどの罪により、承和5年に隠岐への遠流の刑に処された。配所は当初、島前の海士町豊田だったが、その後島後に渡り、光山寺に移った。承和7年(840)に許されて帰京した。隠岐への船出の際に詠んだとされる和歌「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」が有名である。光山寺の二代目の慶安という僧が夢告を受け、険しい横尾山中を彷徨っていると、目前に大きな滝が現れたと伝わる。それが壇鏡の滝である。その上の源来の滝の上に一つの神鏡を発見し、それを祀ったのが壇鏡神社である。創祀年代は不詳だが、平安時代と推定されている。主祭神として、瀬織津比咩命、大山咋命、諾浦姫命、事代主命を祀る。

那久から北に向かい、横尾トンネルを抜けると油井の池がある。標高約50mに位置した直径約250mの円形の池で、大部分が湿性草原となり、池の中央部は草木が生えているが浮島になっている。33種類のトンボなど貴重な動植物の生息地となっている。

油井の池
池の東側には馬蹄形状の崖が切り立ち、その崖が粗面岩の溶岩から成ることから、油井の池の丸い地形は、島が形成された頃の活発な火山活動時(約500万年前)の「爆裂火口」とみられていた。しかし最近では、約300万年前の巨大地滑りによってできたという「頭部陥没帯」説が有力視されている。昭和40年代までは水田としても利用されていたという。

オキタンポポ
この池の辺りでも隠岐の固有種、オキタンポポを確認することができた。やはり、人家や道路から離れた、自然豊かなところで生き延びているようだ。

油井前の洲という波食棚
油井の集落の手前に「水仙の里」がある。冬に咲く群落のニホンスイセンは、一つの花茎にたくさん花をつける野生種で、「房咲水仙」とも呼ばれる。この下の海岸は、油井前の洲という広い波食棚を形成している。約2千万年前の日本海が湖であった時代の地層で、夏場は水面下に沈んでいるが、冬季の海面低下時には浮き出てその姿を表し、水平線に落ちる夕日はまるでウユニ塩湖のように絶景という。油井港の防波堤は波食棚の上に作られている。170×220mほどの島後で最も広い波食棚で、防波堤の先にも箱島という波食棚がある。

樹齢320年の松の木の根
島後の西海岸を北上して福浦から重栖湾という深い入江に入る。重栖川に沿って広がる田園地帯は東の奥まで達していて、昔から農業が盛んだったことが窺える。この周辺には十を超える神社が散在し、その中で最も大きいのが水若酢神社である。そこは3日前の初日に最初に訪れているが、その水若酢神社の社木が五箇創生館にある。樹齢320年の松の木の根で、周囲が約5.5m、高さ2.5m、平成3年9月、台風19号にて倒木とのこと。

隠岐の牛突き」
水若酢神社の裏手にある五箇創生館では、約800年前から続く大迫力の伝統的な闘牛「隠岐の牛突き」や夜を徹して奉納される「隠岐古典相撲」などの資料展示がある。隠岐の牛突きには、賭け事の対象にしない、鼻綱をつけたまま取り組むなど他地域とは違った仕来りが残されているという。隠岐古典相撲も、二番相撲を取るが、一番目の勝者は二番目には勝ちを譲り一勝一敗とするので、「人情相撲」とも呼ばれている。

黒曜石
縄文時代から利用されている黒曜石は、国内でも北海道白滝、長野和田峠、大分姫島などで産出されるが、島後五箇村久見産は純度が高く光沢の優美さで有名である。切断面が馬の蹄に似ることから別名馬蹄石とも呼ばれている。

隠岐郷土館
同じ敷地内にある隠岐郷土館は、明治18年(1885隠岐四郡町村連合会により郡役所庁舎として建造され、明治21隠岐島庁、大正15隠岐市庁と変遷改名し、昭和43 年廃棄に伴い、旧西郷町より移築復元されたものである。明治初期の洋風木造建築様式を伝える島根県唯一の遺構で、県指定有形文化財である。上げ下げ式縦長窓、白い胴蛇腹の外壁など、明治初期のハイカラな雰囲気を漂わせている。

遺跡からの出土土器

隠岐郷土館内には、へぎ遺跡や大城遺跡からの出土土器や漁具や民具などが展示されている。所蔵資料総数は約3,000点、そのうち漁撈用具、山樵用具などの生産用具674点が国指定、家具調度、衣服装身具など691点が県指定のそれぞれ民俗文化財になっている。

神楽面や小道具
神楽に用いられるさまざまな神楽面や小道具も色々展示されている。舞手の道具は総称して「採り物」といい、神が降りてくる目印としての「依り代」にもなっている。神楽鈴、御幣、扇子、舞矛などなど。

大綱の保存状態
これは祭りの際に使う、山車を引く大綱を持ち運ぶときの様子。例えば、水若酢神社神幸祭では、子供たちが大綱で山車を引き、約200mを巡幸する。ここの神幸祭は、神迎え神事の原型を留めているという。

都万目の民家
郷土館の裏手にある都万目の民家は、江戸時代後期の茅葺家屋で、隠岐の頭(おとな)百姓級民家の代表的なものとして、昭和49年(1974)県指定の文化財になり、ここに移築され展示されている。正面左手が上手で、右手の部屋を日常的に使った。出入り口は左から玄関、中戸口、大戸口と呼び、用途により使い分けた。玄関に面するシモノマで来客の応対をしたり、寝室として利用したが、その奥のカミノマは冠婚葬祭などの行事で使い、特別な客をもてなした。

「からむし2世号」
郷土館の脇に「からむし2世号」が展示されている。縄文人が黒曜石を丸木舟で運んだとする説を実証するため、1982724日午前4時40分に知夫里港を出発し、1723分に松江市美保関町七類港に入港した。艇内には15キロの黒曜石を積み込み、総勢13名のパドラーが交代したという。