半坪ビオトープの日記

利尻島、利尻町立博物館

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利尻島、神居海岸パーク
フェリーは利尻島北部の鴛泊港に着いたが、宿泊地の沓形に移動し、そこで車を借りて利尻島観光をスタート。初日は西から南を巡る。まずは神居海岸パークだが、残念ながら今年はオープンが遅れてまだ開設前だった。元船揚げ場を再利用し、ウニ取り、ウニ剥き、利尻昆布の土産作りなど、夏だけ開設する体験施設で、ウニや昆布を使った軽食も味わえるという。

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神居海岸
利尻島はまだ天候不順が続き、神居海岸近くの海も荒れていて、打ちつける波飛沫が磯を白く際立たせている。

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利尻町立博物館
利尻島南部にある利尻町立博物館では、利尻町の自然や歴史、利尻の人々の生活や文化などを知ることができる。館内は写真撮影OKなので助かる。

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昆布狩りの漁具:マッカ
玄関を入るとすぐにマッカという昆布狩りの漁具が展示されている。長さ約2.7
mで、昆布を巻きつけて根ごと引き抜く。道内各地でも使われている。

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利尻島の形成
利尻島は、名峰利尻山を中心とする周囲60k
mの、ほぼ円形の火山でできた島である。およそ1000万年前に土台ができて、約10万年前から1万年前に火山活動があったとされ、活火山に指定されている。東北から北海道の中央山地にかけてのびる火山帯から遠く離れた孤高の火山と言われる謎は、近年、太平洋プレートが屈曲して沈み込むという特殊な条件により形成されたことが明らかにされた。利尻各地に散在するポン山の「ポン」はアイヌ語で「小さい」を意味し、北部と南部に小高い丘がいくつかあり、前者は古い時代の溶岩ドーム、後者は新しい時代のスコリアと呼ばれる噴出物が三角錐状に積み重なったものだという。

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利尻山
最北の百名山、標高1721mの利尻山は、利尻富士とも呼ばれるように、いくたびにもわたる噴火により流れ出た溶岩や火砕物が積み重なってできた成層火山である。時期と場所により溶岩の粘り具合が一様でなかったため、見る方向によって景観は多様であると言われるが、残念ながら今回は厚い雲に覆われて利尻山の全容が見えなかった。

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利尻山のヤムナイ沢
礼文島から見た利尻山は北西面で、まだかなり多くの沢に残雪があったが、万年雪があるヤムナイ沢など、島内の多くの沢にはかつて氷河が存在したと考えられている。

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利尻島内で見られる動物
利尻島にはヒグマやエゾシカ、キタキツネや蛇は生息せず、海岸にはトドやゴマフアザラシがやってくる。島内で見られる動物は、イタチやシマリスなどの小動物だけである。例外として、2018年に北海道本島から約20km離れた利尻島に、ヒグマが泳いで上陸したという。

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利尻島内の遺跡
利尻島内には旧石器時代から擦文時代まで、約30ヶ所の遺跡が確認されている。沓形の亦稚(またわっか)貝塚から出土したトナカイの角には、クマやクジラと思われる動物が多数彫刻されていて、北海道の指定文化財に認定されている。

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亦稚貝塚と種屯内遺跡
亦稚貝塚と種屯内遺跡は、沓形港周辺の縄文時代後期から続縄文時代オホーツク文化期に形成された貝塚遺跡で、土器・石器・骨角器などの人工遺物が出土し、遠隔地との交流も証明されている。亦稚貝塚で出土した骨偶はセイウチの骨から作られ、オホーツク文化エスキモーの文化との類似が想定されている。

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種屯内遺跡から出土した人骨
種屯内遺跡の墓から出土した人骨は、屈葬で埋葬された若い女性で、歯が激しく磨耗していることから衣類に使う毛皮を歯で舐めしていたと推定されている。副葬品としてほぼ完形の土器が頭に脇に埋められていた。

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装飾された土器
装飾されたトナカイ角が出土した亦稚貝塚の同じ場所から発見された土器4点には、特異な装飾が見られる。特に右の土器には動物10個体が描かれ、希少例とされる。このように利尻島にはオホーツク文化の遺物が多いのが特徴である。

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ニシン番屋とヤン衆
こちらはニシン番屋とヤン衆。明治から昭和にかけてニシン漁の出稼ぎに来ていた若い衆とニシン番屋の情景が再現されている。手前には、今井家資料が展示されている。明治30年(1897)に今井三之助が大山文蔵から、漁場(漁業権)および鰊漁事業を購入した時の文書である。

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藤野家の資料
こちらは幕末に、西は宗谷・利尻・礼文、東は斜里・根室・国後・択捉と東西奥蝦夷地の大場所をその手に収め、松前第一の豪商と言われた藤野家の関連資料である。道内各地に残る史跡や建造物等の歴史資料により藤野家の足跡を探ることができる。

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藤野家の関連資料

利尻・礼文の場所請負人になった初代藤野喜兵衛は、近江国豪農の生まれで、天明元年(1781)12歳で福山(松前)に渡り、姉の夫に丁稚奉公し、寛政二年(1800)20歳で独立し、蝦夷地物産の売買運輸業を始めた。その後、余市・宗谷・利尻・根室樺太などへ場所請負人を広げ、松前第一の豪商となった。藤野家は明治以降も北海道・樺太で事業を幅広く展開した。稚内市の宗谷厳島神社をはじめ、道北には藤野家が開いた神社や寺院がいくつも残されている。