翌日、礼文島から利尻島へ向かう船が天候不順で欠航となったため、稚内へ渡って次の日の朝、利尻へ向かうことにした。利尻島のホテルは一日順延してもらった。稚内も雨天だったが、少しは観光できた。ここは稚内駅をくぐり抜けた、昔、樺太へ向かった線路に使用していた車輪止めと線路。今は日本最北端の線路のモニュメントとして復元されている。
「北と南の始発・終着駅」のある都市として、平成24年に友好都市締結をしている。
稚内市は、北を宗谷海峡、東はオホーツク海、西は日本海に面し、宗谷岬から43km北にサハリン(旧樺太)を望む国境の街である。市内の稚内公園には「北方記念館」があり、日本最北の複合施設・稚内副港市場には樺太記念館が併設されている。ただし、訪問した日は二階の樺太記念館は休業中だったため、一階で「樺太ノスタルジー」や「稚内ノスタルジー」のギャラリーだけ見学した。日露戦争後の1905年に南樺太が日本領となってから40年後、1945年にソ連領となった。サハリン本島とクリル諸島を総称してサハリンと呼び、州都はユジノサハリンスク(旧豊原)。稚内市はサハリン州の三つの都市と友好都市を締結している。街の名、稚内は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ「冷たい・水の・川」が略された名といわれる。
が開業した。
稚内〜大泊の連絡航路は、夏は濃霧、冬は流氷が海峡を埋め尽くす困難があった。そのため連絡船は日本初の砕氷客貨船だった。
1938年、それまでの稚内港駅に替わり、北防波堤ドーム内に稚泊航路の引き込み駅として稚内桟橋駅が設置され、翌年駅舎が完成し正式に開業した。貨物保管庫や待合所、乗降客用ホームと貨車用のホームがあって、樺太との貨客の往来で賑わった。
樺太におけるニシン、マス、サケの漁業は松前藩統治時代から経営されていたが、1875年に樺太・千島交換条約でロシア領になった後も、日本人は漁業権を得て経営を続けた。1905年に樺太が日本領になると競争入札により漁業者を定めていた。
樺太の東西両岸は世界でも屈指と言われる好漁場で、南樺太が日本領になった当初は、漁業が基幹産業だった。漁業の中心はニシン、マス、サケだったが、他にもタラやカレイ、カニ、ホタテなどがあり、捕鯨も盛んに行われた。