半坪ビオトープの日記

稚内、樺太ノスタルジー

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稚内、日本最北端の線路のモニュメント
翌日、礼文島から利尻島へ向かう船が天候不順で欠航となったため、稚内へ渡って次の日の朝、利尻へ向かうことにした。利尻島のホテルは一日順延してもらった。稚内も雨天だったが、少しは観光できた。ここは稚内駅をくぐり抜けた、昔、樺太へ向かった線路に使用していた車輪止めと線路。今は日本最北端の線路のモニュメントとして復元されている。

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日本最北端の駅、稚内
稚内駅は日本最北端の駅であり、今は2012年にできた複合施設「キタカラ」の中の「道の駅わっかない」に併設されているため、改札を通らずに駅を眺めることができ、「日本最北端の駅」の標柱も目の前にできる。

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北の始発・終着駅
JR北海道宗谷本線の稚内駅は、JR九州指宿枕崎線枕崎駅から3,000km離れていて、
「北と南の始発・終着駅」のある都市として、平成24年に友好都市締結をしている。
ちなみにJR日本最南端駅は指宿枕崎線西大山駅である。

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稚内副港市場、樺太ノスタルジー、サハリン

稚内市は、北を宗谷海峡、東はオホーツク海、西は日本海に面し、宗谷岬から43km北にサハリン(旧樺太)を望む国境の街である。市内の稚内公園には「北方記念館」があり、日本最北の複合施設・稚内副港市場には樺太記念館が併設されている。ただし、訪問した日は二階の樺太記念館は休業中だったため、一階で「樺太ノスタルジー」や「稚内ノスタルジー」のギャラリーだけ見学した。日露戦争後の1905年に南樺太が日本領となってから40年後、1945年にソ連領となった。サハリン本島とクリル諸島を総称してサハリンと呼び、州都はユジノサハリンスク(旧豊原)。稚内市サハリン州の三つの都市と友好都市を締結している。街の名、稚内は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ「冷たい・水の・川」が略された名といわれる。

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樺太の町
40年間の日本統治時代に南樺太には多くの開拓者が入植し、いくつもの町が築かれた。1907年に樺太庁が大泊に設置され、翌年豊原に移転した。

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樺太の鉄道
樺太の鉄道は、1905年の樺太の楠渓から豊原間に軍需輸送のため敷設されたのが始まりとされる。その後も、1914年に川上線、1928年には豊真線、1937年には西海岸線の全線
が開業した。

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稚内樺太大泊間の鉄道連絡航路
1923年に稚内樺太大泊間に稚泊航路が鉄道省により、また翌年には稚内樺太本斗間には北日本汽船株式会社により稚斗航路が開設された。最北の鉄道連絡航路の誕生であった。

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稚内港駅
1923年の稚泊鉄道連絡船の開設により、稚内連絡船待合所は改修を進め、1928年に稚内港駅と改称された。その後、1938年に北防波堤構内に稚内桟橋駅ができてその役目を終えた。

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稚内〜大泊の連絡航路
稚内〜大泊の連絡航路は、夏は濃霧、冬は流氷が海峡を埋め尽くす困難があった。そのため連絡船は日本初の砕氷客貨船だった。

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稚内〜本斗の稚斗航路
稚内〜本斗の稚斗航路により樺太西海岸の開発はとりわけ盛んになった。ちなみに、本斗港は樺太唯一の不凍港といわれた。

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稚内桟橋駅
1938年、それまでの稚内港駅に替わり、北防波堤ドーム内に稚泊航路の引き込み駅として稚内桟橋駅が設置され、翌年駅舎が完成し正式に開業した。貨物保管庫や待合所、乗降客用ホームと貨車用のホームがあって、樺太との貨客の往来で賑わった。

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樺太水産業
樺太におけるニシン、マス、サケの漁業は松前藩統治時代から経営されていたが、1875年に樺太・千島交換条約でロシア領になった後も、日本人は漁業権を得て経営を続けた。1905年に樺太が日本領になると競争入札により漁業者を定めていた。

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樺太の漁業
樺太の東西両岸は世界でも屈指と言われる好漁場で、南樺太が日本領になった当初は、漁業が基幹産業だった。漁業の中心はニシン、マス、サケだったが、他にもタラやカレイ、カニ、ホタテなどがあり、捕鯨も盛んに行われた。