半坪ビオトープの日記

フゴッペ洞窟、小樽市運河館 


余市から小樽に向かってすぐ、国道の右手にフゴッペ洞窟がある。昭和25年(1950)札幌市の考古学少年・大塚誠之助が発見した土器片がきっかけで発見された。翌年からの北大名取助教授を中心とした調査団による発掘の結果、国内最大級の刻画のある洞窟遺跡が発見された。昭和47年以降、カプセル方式の施設により刻画は保護・展示され一般に公開されている。

洞窟は奥行が約5m、間口が約4m、高さは約5mであり、壁面のいたる所に200以上の原始的な図像が陰刻されていて、人物や動物、船などを象徴したものと推定されている。洞窟内には厚さ約7mの遺物包含層があり、薄手の後北式土器(続縄文式土器)、石器、骨角器等が出土し、本州の弥生時代にほぼ対応する約2000〜1500年前の続縄文期に属するとされる。撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せるが、撮影禁止にする必要はないと思う。

小樽は江戸時代後半に始まるニシン漁業と、明治時代以降の港湾整備によって発展した街で、明治から大正にかけては北海道の玄関として、また北海道一の経済都市としてその名を轟かせた。小樽運河はその繁栄を象徴する存在だった。石狩湾に東北東に向けて開かれた小樽港の小樽運河の旧倉庫群は、戦後に整備された埠頭岸壁によりその使命を終えたが、散策路などが整備され、63基のガス灯も設置されて、当時の雰囲気を残している。運河館の駐車場の脇にも古い倉庫が残されている。

小樽市総合博物館運河館は、小樽市の歴史と自然環境について、所蔵資料約2万点の展示で紹介している。赤い建物・小樽イルポンテ(旧:小樽運河工芸館)の先に建つ古い「旧小樽倉庫」を、観光物産プラザ(運河プラザ)とともに利用している。

運河館の第1展示室では、アイヌの時代から近代までの小樽の歩みを、様々な角度から紹介している。小樽市の名は、アイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来するが、今の小樽市中心部ではなく、札幌市との境界の小樽内川を指していたという。和人が移住する以前は、アイヌの人々の長い歴史があり、「オタル」をはじめアイヌ語を語源とする多くの地名や遺跡の存在は、オタルの歴史の基盤にあるアイヌ文化を示している。

小樽運河は小樽港の艀荷役作業の効率化のために大正3年〜12年(1914~23)までに作られたが、昭和12年(1937)に埠頭が完成して主役の座から降りていった。

この大きな六曲一双の屏風は、ニシン漁業を描いた「鰊盛業屏風」で、詳しい作業行程や当時の風俗を知ることができる。

余市町のフゴッペ洞窟と良く似た彫刻のある洞窟が、小樽市にもあり「手宮洞窟」と呼ばれる。慶応2年(1866)に発見され、今からおよそ1,600年前頃の続縄文時代中頃〜後半の時代のもので、本州の古墳時代初期にあたる。これはレプリカだが、「角のある人」や手に杖のようなものを持った人、四角い仮面のようなものをつけた人などが描かれている。こうした岩窟画は日本海を囲むロシア、中国、朝鮮半島などに見られ、角を持つ人はシベリアなどの北東アジア全域でかつて広く見られたシャーマンを表現したものだろうという説が有力である。

小樽市内の遺跡の数は100を超えているが、代表的な忍路土場遺跡は縄文後期(約3500年前)とされる。湿地遺跡での大量の木製品を始め漆工芸品、繊維製品などが出土する。特に漆工芸技術の確認はこの時期の北海道では初めてとされる。

忍路土場遺跡のすぐ南に隣接する忍路環状列石は、国の史跡に指定されている北海道最大級の環状列石であり、日本の考古学史上初めて学会に報告されたストーンサークルでもある。南北約33m、東西約22m、楕円形をしていて、約3500年前の縄文時代後期のものと推定されている。小樽市から余市町にかけては80基以上のストーンサークルが確認されているという。

忍路土場遺跡からは、住居跡・木組みの作業場などの遺構、建材・木製容器・編物・編布・琴・火起し道具(火きり棒と火きり板)などの植物性遺物のほか、様々な形の土器も出土している。

小樽市総合博物館運河館の東側に続く小樽運河沿いに建つ倉庫は、木骨石造りの構造を持つ小樽独特のものだが、現在はレストランなどに利用されている。