半坪ビオトープの日記

軽米町歴史民俗資料館、久慈琥珀博物館


南部町の法光寺から南東に進むと、岩手県軽米町に入る。八戸自動車道をくぐり抜けた先に歴史民俗資料館がある。復元された竪穴式縄文住居や古民家、お祭り広場などが揃う「えぞと大自然のロマンの森」内に位置し、軽米町の文化遺産を展示している。

左手(北)には「歴史と民話の館」が廊下でつながり、語り部による昔話の伝承も行われている。

民俗資料館は「時代を切り開いた鉄産業」「暮らしを支えた農法と馬産」「軽米町の自然と歴史」「祭りと郷土芸能」の四つのテーマに分かれて展示されている。軽米町内では縄文時代早期の岩手県内最古級(約12,000年前)の「隆線文土器」が出土し、早期前葉(約9,000年前)の竪穴住居跡が発見されている。長倉遺跡では、異色の遮光器土偶が珍しく欠損なく発見されている。
館内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。

町内には400を超える縄文遺跡が確認され、大量の土器・石器、生活道具が出土し、住居跡もたくさん見つかり、県内有数の規模・量を誇る。大日向Ⅱ遺跡からは、新潟県産のヒスイ4個を身につけた人骨も発見されている。青竜刀型石器は、縄文中期から後期初頭の北海道南部から東北地方北部の遺跡から発見される石器で、用途は不明だが祭礼用具の説がある。

南部駒踊りは南部地方の芸能を代表するものだが、そもそも南部の歴史は南部国と馬の歴史に他ならない。南部の国は、文治5年(1189)源頼朝が平泉の藤原氏を滅亡させた時の戦功によって、甲斐の南部三郎光行が、今の岩手県北部から青森県南部の国「ぬかのふのこおり」を賜った時に始まる。すでに名馬の産地として知られた南部で軍馬の育成とともに馬踊りも盛んになった。
東北北部に残るオシラサマ(おしら様)は、一般に蚕の神、農業の神、馬の神として信仰されるが、目の神や女の病の治癒を祈る神としても信仰されている。神体は桑などの木で作った身体に布の衣を多数重ねて着せたものが多く、2体1対で神棚や床の間に祀られることが多い。

軽米町から東南東に進むと久慈市に至る。久慈市郊外の森の中に久慈琥珀博物館があり、日本や世界の琥珀について歴史・原石・虫入り琥珀・工芸品など、多くの資料を展示している。琥珀ギャラリーに展示されているこの作品は、世界最大級の琥珀製モザイク画で、ロシア・エカテリーナ宮殿「琥珀の間」再建修復委員長を長年勤めたA.A.ジュラヴリョフ(Juravlyov)の製作で、1998年に完成した。絵柄は国宝「金色堂」をデザイン化し、中央に金色堂中央壇と螺鈿細工の孔雀を配し、右に三陸海岸景勝地山王岩の日の出、左に岩手山の日の入りを配している。額装は日本の伝統技術の木工漆塗り金箔仕上げで、和洋折衷の作品となっている。

琥珀とは、数千万年前に繁茂していた樹木の樹脂が土砂などに埋もれて化石化した「樹脂の化石」であり、世界最古の琥珀は約3億年前のもので、イギリスのノーサンバーランドや、ロシアのシベリアで発見されている。久慈の琥珀の起源は、恐竜時代にもあたる約8,500万年前の樹脂の化石で、南洋スギが起源種と考えられている。生成の過程で古代の昆虫・葉・花・樹皮などが樹脂の中に入り込んだものは希少価値が高い。色も黄・茶・赤・白・青・緑・黒など多彩で、約250種あるといわれる。

世界各地で昆虫入り化石が発見されているが、ここではロシアやドミニカ産の琥珀が多く展示されている。ゴキブリやツノゼミ、ハチやハエなどの昆虫の化石も、それらの進化を探る上で学術的にたいへん貴重とされる。

久慈は日本最大の琥珀産地として知られ、ここには大正7年ごろまで実際に琥珀が採掘されていた坑道跡が残されている。久慈産の虫入り琥珀も「ハバチの仲間」や「ヒロズコガの一種」が発見されている。後者は、アジア全域でも最古の蛾の化石で、蛾や蝶の先祖と考えられている。

久慈からは、約5,000年前の縄文時代の遺跡からたくさんの琥珀原石が出土し、青森の三内丸山遺跡からも久慈産の琥珀が出土している。古墳時代の古墳から出土する琥珀製の勾玉や丸玉の多くが久慈産であることが解明されるなど、大和朝廷のもとにも琥珀がたくさん運ばれていたことがわかっている。

この琥珀製モザイク画は、バルト海に伝わる伝説「人魚姫・ユラテ」の物語を当館製造スタッフが製作したもので、久慈市姉妹都市であるリトアニア琥珀産地・クライペダ市のあるバルト海の浜辺に打ち上げられる琥珀の物語である。カスチチスという漁師の歌に魅了された海底の琥珀の城に住む人魚の女神・ユラテは、最高神ペルクナスの怒りを買い、城の床に鎖で縛り付けられた。以来、むせび泣く女神ユラテの涙が琥珀のかけらとなって浜辺に打ち上げられるようになったという。