半坪ビオトープの日記

奥の院、御廟


やがて武将たちの墓石群が終わる頃、参道正面に御廟の橋が現れる。右手の杉木立ちの向こうには、帰りに立ち寄る護摩堂や御供所を垣間見ることができる。

御廟の橋は、36枚の石の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表しているといわれ、橋板の裏には釈迦のシンボルの梵字が刻まれている。この橋の上であの刈萱道心と石童丸が初めて巡り合ったとも伝えられている。別名、無名橋(煩悩をとる橋)ともいう。御廟の橋を渡ると大師御廟の霊域に入るので、撮影禁止となる。

参道正面突きあたりの燈籠堂は、真然大徳によって創建され、その後、藤原道長によって治安3年(1023)に現在に近い大きさとして建立されたという。向かって右が長和5年(1016)に祈親が廟前の青苔の上に点じて燃え上がったものを灯明として献じたもので、高野山の復興を祈念して点じた祈親灯である。髪の毛を売って検討した貧女お照の物語にちなんで俗に「貧女の一灯」ともいう。左には寛治2年(1088)に白河上皇が献じた一灯がある。記録には上皇は30万灯を献じたことがみえ、これを俗に「長者の万灯」ともいう。燈籠堂の裏手にある弘法大師御廟は、3間4面、桧皮葺宝形造である。入定前年の承和元年(834)、空海自ら廟所を定めたといわれる。

御廟からの帰り道に、御廟橋を渡るとすぐ左に護摩堂がある。ここで護摩祈祷などが行われる。

護摩堂の先に御供所がある。御供所は御廟に奉仕するために建てられた庵が始まりである。真言密教における入定(にゅうじょう)とは、僧が衆生救済を目的とし、弥勒出世の時まで禅定(生死の境を越えた宗教的な深い瞑想)に入るという究極的な修行を指し、のちにその肉体が即身仏(いわゆるミイラ)となって現れるとされる。高野山における空海はこの入定を行っているとされるため、今でも禅定を続けていると解釈されており、空海入定後から現在までの1200年もの間、毎日朝と昼前の2回の食事と衣服を給仕しているという。その食事はこの御供所で行法師が作る。奥の院の事務所でもあり、大黒天も祀られていて、お札なども売っている。

御供所のすぐ側には頌徳殿が建っている。御茶の接待がある休憩所でもあり、茶処とも呼ばれる。大正4年、高野山開創1100年記念で建てられた。中には大きな茶釜がいくつもある。

御供所から表参道に合流する道を進むと、すぐ左手に浅野内匠頭墓所がある。中央が浅野内匠頭の墓で、大石内蔵助が主君の冥福を祈って建てたといわれる。左は赤穂四十七士菩提碑である。

表参道に合流する手前に其角の句碑がある。蕉門十哲の筆頭といわれる宝井(榎本)其角(1661~1707)である。「卵塔の鳥居やげにも神無月」

墓石群はあまりにも数が多すぎて、残念ながら墓標が読み取れないと誰のものかわからない。

奥の院の墓石群が立ち並ぶ参詣道には、樹齢千年、約1000本ともいわれる杉木立ちが鬱蒼と茂り聳えて、厳粛な雰囲気を醸し出している。
これで高野山の主な見所は見て回ったが、あまりにも広すぎてやはり半日では忙しい。宿坊に泊まってゆっくり訪ね歩くことをお勧めする。