半坪ビオトープの日記

根来寺


和歌山県一周の旅の最後に、紀ノ川沿いの根来寺を訪ねた。根来寺は、大伝法堂を中心とする諸伽藍からなる大伝法院をいい、新義真言宗の総本山であり、一乗山大伝法院と号する。元は高野山内にあったもので、根来寺の開祖・覚鑁(かくばん)上人(興教大師)が大治5年(1130)に鳥羽上皇の勅願によって高野山に大伝法院を開いたことに始まる。
大伝法堂の参道石段の途中右側に松尾塊亭の句碑がある。紀伊藩士・松尾熊之助、俳号・松尾塊亭は、享保年間に根来寺を訪ね詠んだ。
「反腕に 昔をおもふ 山さくら」塊亭翁

後に覚鑁は、金剛峯寺と大伝法院の両座主職を兼ねたが、金剛峯寺と対立し、保延6年(1140)高野山を離れて大伝法院の荘園であった弘田荘(現、岩出市根来)の豊福寺に居を移した。正応元年(1288)大伝法院と覚鑁の私坊であった高野山の密厳院は根来の地に移り、一大伽藍が整備されていく。戦国時代には、根来寺の擁する行人方と呼ばれる僧兵集団が鉄砲隊を組織し、野田・福島の戦いで織田信長方に与していた。院98、僧坊2700、寺領70万石、行人・僧兵数万という一大共和国を作り上げていたという。その後、羽柴秀吉と対立し、秀吉による天正13年(1585)の根来攻めで、大塔・大師堂・大伝法堂を除くほとんどが焼失し、衆徒は四散した。

境内右側に田林義信の歌碑が建っている。明治39年生まれ(1906)の田林義信は、和歌山大学国文学教授を勤め、垣穂短歌会を主宰し、賀茂真淵歌集の研究でも知られる。
「結界はさすかに寂か諸鳥の聲々きこゆ渓谷の方より」

大伝法堂は、天正の兵火は免れたが、秀吉が京都に寺を創建するため本尊とともに解体搬出された。しかし寺の建立は実現せず、積まれたまま朽損したという。再建は文政10年(1827)で、建物は桁行3間、梁間2間、四面裳階付き、入母屋造、正面向拝3間、本瓦葺きの風格ある建物である。本尊は木造大日如来坐像、脇仏は木造金剛薩埵(さった)坐像・木造尊勝仏頂坐像であり、像内に銘があって嘉慶元年から応永12年(1387~1405)にかけて造像されたことがわかる。この大伝法堂は、真言宗の最も大切な修法を伝える道場で、「傳法大会」「傳法潅頂」など僧侶が厳しい修行をする場所である。

大伝法堂の左手に建つ通称・大塔は、真言密教の教義を形の上で示したもので、正式には大毘盧舎那法界体性塔という。高さ40m、幅15m、宝塔の姿を持つ木造の塔としては日本最古・最大の多宝塔で、国宝に指定されている。

初層の外見は方形だが、初層内部には円形の内陣が造られており、円筒形の塔身の周囲に庇を付した、多宝塔本来の形式をとどめている。内部には12本の柱が円形に立ち、その中に四天柱が立っている。解体修理の際に発見された墨書により、文明12年(1480)頃より建築が始まり、天文16年(1547)に完成したことがわかっている。基部には天正の兵火の際の火縄銃の弾痕が残されている。

大塔の左手前に大師堂が建っている。大塔とともに秀吉の焼き打ちを免れた建物で、本尊の造立銘から明徳2年(1391)頃の建立と推定されている。

大師堂は、方三間の本瓦葺き宝形造で、縁が付き、組物も簡素な和様だが、桟唐戸など建具は禅宗様である。内部の天井は折上格天井で、中央後方に来迎柱を立て内陣とし、須弥壇を構え、春日厨子(ともに大師堂の附指定で国の重文)に本尊の木造弘法大師坐像を安置している。

根来寺の本坊は、湊御殿、名草御殿、別院で構成されている。

本坊・名草御殿の庭園を挟んだ向かいには、光明真言殿(御影堂)が建っている。光明真言殿は、桁行5間、梁間4間の外陣背面に梁間2間の内陣を突出させ、正面には唐破風付きの向拝を設け、側廻りには蔀戸や舞良戸を用いた閑雅な住宅風の建物である。享和元年(1801)に建立され、文化元年(1804)に落慶供養が行われた。現在は開山の興教大師・覚鑁像を安置し、左右には歴代藩主・座主の位牌が祀られている。

本坊に続いている湊御殿、名草御殿、別院は表書院及び奥書院とも呼ばれ、ともに寛政12年(1800)に紀州徳川家の吹上御殿を移築し、享和元年(1801)に落成したものである。奥書院の北および西に面する庭園は、奇岩怪石を縦横に配置した池泉式蓬莱庭園である。裏山の裾に池を掘り、北正面に滝頭石組を高く積み重ねて滝を三段に落とす。奥書院の南庭は、東南隅に立石を組み景石を配し、赤松・ツツジ等を植えた枯山水庭園の平庭である。

池には大小2島を低く築き、2枚の石橋を架け、浮島を据え、島および池辺には主に平石による護岸石組を行う。

光明真言殿の左側(西)には、行者堂および聖天堂が建ち、聖天堂南面には聖天池が広がっている。聖天池は、中央に島があって弁財天を祀り、付近に若干の石組を保存する。池辺一帯に松・楓などを植え、風致に富む。池は天正13年(1585)の秀吉の焼き打ちより以前の、天正3年(1575)の年号がある「一乗山根来寺絵図」に描かれているので、本寺開創以来の貴重な遺構とされる。池泉式蓬莱庭園の池庭、枯山水庭園の平庭、平安時代開創より遺る聖天池、以上3つの日本庭園が国の名勝に指定されている。
以上で、和歌山県の白浜、潮岬、熊野三山高野山などを巡る駆け足の旅が終わった。とりわけ熊野三山高野山は広範囲に展開していて、現在にも続く歴史の重みを十分に感じさせる紀伊山地の興味深い霊場であった。