半坪ビオトープの日記

高野山、金剛峯寺


最後の日は高野龍神スカイライン国道371号線)を走って高野山まで行く予定だが、3月下旬までは積雪・路面凍結の恐れがあるというのでチェーン携行の交通規制があった。和歌山県奈良県の県境の標高1000メートル前後の高野龍神スカイラインは、最高峰の護摩壇山(1372m)周辺で尾根伝いを走るので、紀州の山々を展望できて心地よい。護摩壇山近くの「ごまさんタワー」が展望台を兼ねた休憩所となっている。北を望めば左の尾根伝いに道が走り、その向こうに高野山がある。

南に見える護摩壇山の稜線は、木々に霧氷が着いてキラキラ輝いている。これから下る高野山でも、早朝の気温が零度位なので、ここはもちろん氷点下である。北側斜面にはところどころ残雪があったが、道路は凍結していなくて助かった。

龍神温泉から1時間ほどで高野山に着いた。高野山の山内は、西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮華谷の各地区に分かれ、地区全体の西端には高野山の正門に当たる大門があり、東端には奥の院への入口である一の橋がある。信仰の中心地は山内西よりの「壇上伽藍」と呼ばれる境内地で、その東北方に総本山金剛峯寺があり、奥の院は一の橋からさらに北東に2キロほどの山中にある。高野山の玄関口に建つ大門は、宝永2年(1705)に徳川綱吉により造営・再建された5間3門開きの総門で、高さ約25m、間口21m、奥行8mの紀州最大の楼門建築とされ、国の重文に指定されている。門の両脇を固める高さ約5mの阿吽の金剛力士像は、江戸時代に活躍した慶派仏師の運長と康意の作である。

まず金剛峯寺手前の駐車場に車を止めて金剛峰寺に向かうと、左手に大師教会本部がある。高野山開創1100年記念として大正14年(1925)に建てられた、高野山真言宗の布教等の総本部である。金剛峯寺高野山参詣諸堂共通内拝券を購入したので、ここで授戒体験ができるのだが、時間がなく省略した。

金剛峯寺入り口の左手前、高い石垣の上に鐘楼が建っている。豊臣秀吉の勇将であった福島正則が両親の追善を祈り元和4年(1618)に建立した。寛永7年(1640)に正則の子、正利によって再鋳され、鐘銘が仮名混じり文であることでも知られる。現在も午前6時から午後10時までの偶数時に時刻を知らせていて、六時の鐘と呼ばれる。

標高約800mの平坦地に位置する高野山は、100ヶ寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。真言宗の宗祖である空海弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、弘法大師入定信仰の山として今でも多くの参詣者を集めている。金剛峯寺は、全国高野山真言宗寺院約3600ヶ寺の総本山である。山号高野山というように、元来は高野山全体と同義であったが、金剛峯寺という寺号は、明治期以降は一つの寺院の名称になっている。

金剛峯寺という名称は、空海が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇(ゆがゆぎ)経』という経より名付けたと伝えられる。東西60m、南北70mの主殿をはじめとした建物を多く備え、境内坪数48,295坪の広大さを誇る。文禄2年(1593)に再建された正門は、金剛峯寺の建物の中で最も古い。提灯に描かれているように寺紋は二つあり、左が豊臣秀吉拝領の青巌寺の寺紋「五三の桐」、右が高野山の鎮守・丹生都比売(にうつひめ)神社の寺紋「三頭右巴」である。青巌寺は、秀吉が文禄2年に母の大政所を弔うため建立した金剛峯寺の前身であり、丹生都比売神社とは、空海金剛峯寺を建立する際に神領を寄進したという高野山の麓の入口にあった神社である。

正門をくぐると正面に豪壮な大主殿が建っている。文久3年(1863)に再建された、東西54m、南北63mの書院造建築である。右手に大玄関と小玄関が連なっている。桧皮葺の屋根の上には、天水桶が置かれている。普段から雨水を溜め置き、火災の時に桶の水を撒くための桶である。

左が金剛峯寺の表玄関に当たる大玄関で、正門と同じく昔は天皇・皇族や高野山重職だけが出入りした。一番右の小玄関は、昔は上綱職の僧侶が使用し、一般の僧侶は裏口から出入りしたという。

重厚な趣の大玄関の破風飾りは、技巧を凝らした龍の彫刻で迫力があり素晴らしい。二重虹梁の合間の彫刻も手が込んでいる。

大主殿の向かい側、正門をくぐって右手には大きな鐘楼が建っている。金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼で、構造形式から万延元年(1860)に大火で類焼後、元治元年(1864)に再建されたとされる。桁行3間、梁行2間、袴腰付入母屋造で、大主殿や経蔵とともに県の指定文化財となっている。

正門をくぐって左側には、苔むした経蔵が建っている。延宝7年(1679)に大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものである。重要な経を収蔵しているので、火災の類焼を避けるため、主殿とは離れて建てられている。