半坪ビオトープの日記

金剛峯寺主殿、蟠龍庭


小玄関の右手に参拝者入り口があり、拝観料を払う。金剛峯寺だけなら500円だが、大塔、金堂など6カ所で1500円の共通内拝券を購入したら、「3時間以上かかりますが大丈夫ですか」と念を押されたが、「そのつもりです」と答えて、主殿に上がり込んだ。

大広間は重要な儀式・法要が執り行われる処で、襖には群鶴の絵、松の絵が描かれ、狩野法眼元信の筆と伝えられている。右手の持仏間には、本尊の弘法大師を祀り、両側には歴代天皇の位牌や歴代座主の位牌を祀っている。

梅の間には大きな高野開創三鈷杵(さんこしょ)が安置されている。襖の絵は梅月流水で、狩野探幽守信の筆と伝えられている。高野山には飛行三鈷杵と三鈷の松の伝承がある。空海が唐から帰国の際、師の恵果和尚から送られた密教法具の一種である三鈷杵を東の空に向けて投げた。帰国後その三鈷杵を探し求めていると、高野山の松の木に引っかかっているのがわかった。そして高野山の地が真言密教の道場として開かれ、この松は「三鈷の松」といわれた。そのため高野山では「飛行三鈷杵」を大切にし、厳重に保管してきた。昨年、開創1200年を記念して大三鈷杵が作られ、全国の寺院を巡ったという。

主殿の西奥から別殿に進む渡り廊下の脇には、細長く枯山水の小庭が設けられている。

渡り廊下の先は、前身の興山寺跡の部分に入る。別殿と奥殿は昭和9年(1934)の新築で、南にある新奥殿は昭和59年(1984)の「弘法大師御入定1150年御遠忌」の記念に新築されたものである。蟠龍庭もその時に作庭されたもので、2,340㎡の広さがあり、国内最大級を誇っている。別殿から眺めると右手に奥殿が、左奥に正門が見える。

非公開の奥殿は、本山の貴賓室で、昭和9年(1934)の「弘法大師御入定1100年御遠忌」の際に建てられた。元この地は木食応其上人の興山寺跡で、奥殿・別殿が建てられる前は高野山大学と中学があった所である。襖絵は石崎光瑤画伯の大作で「雪山花信」の題によりヒマラヤとヒマラヤシャクナゲの風景が描かれているという。

こちらが奥殿の右手の庭である。奥殿に続いて正面に見える建物は新書院であり、その裏手に真松庵と名付けられた茶室がある。石庭の右手の建物は、昭和42年(1967)に建立された阿字観道場である。阿字観とは仏との一体をはかる真言密教における瞑想法である。

あらためて蟠龍庭を別殿と奥殿のあたり廊下から眺めてみる。蟠龍庭の石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守るように配置されている。龍を表す石は空海の誕生地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われている。

こちらは書院上段の間。以前は天皇上皇が登山された際の応接間として使用された所で、現在は高野山の重要な儀式に使用されている。この上段の間には上々段の間と装束の間があり、壁は総金箔押しで、天井は折上式格天井の書院造りの様式になっている。上段右側にある小さな房のついた襖は「武者隠し」といい、襖の向こうは護衛の武士が待機する部屋となっている。

ここが上段の間と結ばれていた「武者隠し」の間で稚児の間といい、天皇随行する人が不寝番をしていた部屋である。床の間に祀られているのは、旧伯爵副島家に伝承されていた地蔵菩薩である。襖絵は狩野探斎の筆と伝えられている。

大主殿の裏手に垣間見られる建物は、空海の甥の真然大徳の廟で、真然廟(真然堂)という。真然大徳は30歳の時、入定した空海の遺志を継ぎ、根本大塔をはじめとする高野山の諸堂を、50年以上かけて完成させ、高野山の基礎を築いた。廟は寛永17年(1640)に建てられたが、昭和63年(1988)の解体修理の際に、9世紀の見事な緑釉花葉紋四足壺の真然蔵骨器が発見され、再び埋納された。

この部屋は囲炉裏の間で、土を塗り固めて作った土室と呼ばれる部屋である。冬場が極寒の高野山では、暖をとるため土壁で囲んだ部屋の中に囲炉裏を設け、風寒をしのいだ。囲炉裏は天井まで4本の柱と壁が立ち、火袋には小棚が設けられ弁天様を祀っている。正面のお供えは精進供で、突仏供(つきぶっく=ご飯を仏様用に成型したもの)と汁物の具材を手前に配し、副菜として先を斜めに切った大根、人参、さつまいもなどの野菜を供えている。

台所には今でも使われている大きなかまどがあり、大鍋や大薬缶がセットされている。こちらは二石釜。一つの釜で約七斗(98kg)のご飯が炊け、大釜三つで一度に二石(約2000人分)のご飯を炊いた。二石釜の上には行灯が吊られ、正面には台所の神である三宝荒神を祀っている。