半坪ビオトープの日記

久礼八幡宮


久礼湾に面して久礼八幡宮が祀られている。表参道入り口の一の台輪鳥居の左右に二つの歌碑が立っている。左の歌碑は、飛鳥井曽衣の「かきま久礼うらみて帰る浜千鳥 真砂の数や涙なるらん」である。飛鳥井雅量の号が曽衣。飛鳥井家は、藤原北家の流れで和歌と蹴鞠を家業とする。天文・永禄年間に京の乱を避けて土佐に下り、一条氏の賓客となった。天正2年(1574)に一条兼定が豊後に追放されると土佐大津城に移って長宗我部元親に仕え、岡豊城内で長宗我部家中の蹴鞠・和歌の指導にあたった。
右の歌碑は、鹿持雅澄の「古や汝も恋しき浜千鳥 久礼の浦廻ををちかえり鳴く」である。鹿持雅澄は飛鳥井雅量の末裔の下級武士だったが、家老に認められ万葉集の研究を進めた。幕末の土佐の若者たちに大きな影響を与えた国学者の一人。著述「万葉集古義」は、土佐万葉学の集大成として記念碑的存在だが、安政5年(1858)に亡くなる前に上梓はされず、明治24年にようやく出版された。
その先の二の鳥居も堂々とした台輪鳥居で、その先に拝殿が建っている。

拝殿は千鳥破風付入母屋造で、拝殿に続いて横殿、舞殿、本殿が建っている。久礼八幡宮は、もと中土佐町上ノ加江の産土神として祀られていたのを久礼に遷座し、応永年間(1394~1428)に久礼の領主佐竹氏が関東から勧請したという正八幡を合祀したといわれる。しかし、宝永4年(1707)の宝永地震による津波で記録を失ったため由緒等は不詳である。現在の社殿は、文政8年(1825)の再建である。

旧暦8月14、15日には例大祭が催され、14日未明には100貫余(約380kg)の大松明を先頭に練り進む御神穀祭が行われる。とても勇壮な祭りで、土佐の三大祭りの一つとされている。

祭神は、応神天皇神功皇后比売神宗像三女神であり、海の守護神として古来より漁業関係者に崇敬されている。

本殿は春日造銅板葺である。本殿に伝存する鰐口には「明徳3年(1392)」の銘が刻まれており、それが寄進されたものであれば創建はそれ以前と考えられている。本殿の左手に神木の大楠が聳えている。樹高28m、胸高直径1.67mだが、樹齢は不詳とされる。

拝殿の左手に厄ぬけ石という厄除け石がある。頭から抜けて神木に参拝すると厄除けになるという。大正初期に久礼指川のトロッコ軌道工事中に土中より発見されたもので、約1億年前の白亜紀の砂岩が、約1万年前に旧河床で侵食されたもので、丸い穴は川床にできた甌穴(ポットホール)と鑑定されている。

厄除け石のさらに左手に、境内社3社が祀られている。左が秋葉神社、中央が素戔嗚尊・櫛名田姫らを祀る八坂神社、右が素戔嗚尊・南方刀美命・八坂刀賣命を祀る三社神社である。

拝殿に向かって左手前に大きな小賀玉の木が聳えている。オガタマノキ(招霊の木、Michelia compressa)は、千葉県以西の本州、四国、九州の山地に自生するモクレン科の常緑高木で、高さ18mに達する。春に葉脇にやや紫色を帯びた芳香のある白い花が咲く。材は床柱や器具材とし、葉は香料に用いる。古代には祭儀に用いられ、神社によく植えられ、榊のもとはこの木だとの説もある。また、西日本のみに生息するミカドアゲハ(Graphium doson)の食草である。

大正町市場に近い北参道入り口にも台輪鳥居が建っている。ここの狛犬は大変古く、寛政5年(1793)生まれという。北参道の両側には樹木が鬱蒼と茂り、その中に自然石でできた苔むした灯篭がたくさん見かけられた。

北参道の左手には、天満宮が祀られている。

さらにその左手には、稲荷神社が祀られている。